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滞仏日記「不意に出張が決まった。息子はどうする?」 Posted on 2019/03/20 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、不意に明日、地方に出張に行かなければならなくなった。断ることもできる急な仕事だが、引き受けたい。一泊二日、パリをあける必要がある。そこでいつも息子を預かってもらっている人たちに片っ端から電話をしてみたのだが、今回は、あまりに急なことでどこのフランス人家庭からも「難しい」という返事。通常はひとつき以上前に相談をする。しかし、今回は明日という緊急事態。そこでふと思い出したのが、この建物の上階に住む大学院生のA君。地方から上京し、医科学校に通っている。廊下や家の前でよく立ち話をする。お父さんがバイオリンの制作者で、お姉さんがイギリスの劇団で演出家をしているという芸術一家で育っている。引っ越しのご挨拶周りをした時の受け答えの印象が明るくとてもよかった。きちんと挨拶ができる人である。A君は挨拶も完璧な上に、性格もよい。卒業したら医者になる。感じがいい人なので、いつか緊急の場合はシッターのアルバイトをお願いできるのじゃないか、と思って、以前に息子と三人で食事をしたことがあった。僕が作った和食を「とっても美味しい」と言って完食してくれた。

僕のようなシングルファザーの場合、一番困るのが子供を預かってくれる安全な人を探すこと。親戚がいればいいが、フランスじゃ無理だし、友達も多くないので、こういう緊急の場合は本当に困る。今まではだいたい息子の学校の親友の仲良し家族が預かってくれた。でも、毎回というのもちょっと申し訳ない。先方のご家族はいつでも「彼はもう我が子のような存在だから」と言ってくださるのだけど、そう毎回甘えられない。この国の法律で16歳まで一人にさせてはいけない。同じ建物に住んでいる人でシッターがいたら最高だな、とずっと思っていた。A君はその第一候補だった。何がいいかというと、まず、同じ建物の住人であれば、泊まりに来てもらいやすい。息子にしても僕が出張の度に人の家に預けられるのは肩身が狭い。もう15歳だから、まあ、なんでも一人でやれる年齢だし、あまり人にかまわれたくもない。それに大学院生だから、息子も気兼ねしないでいい。一緒にご飯を食べた時、息子が彼に抱いた印象もとってもよかった。「明るくて、優しい人だね」と息子が言った。「いつかパパが日本に行く時とか、ちょっと面倒みてもらおうかな」と言ったら、いいね、と戻って来た。

まず、SMSでA君に簡単な要件を伝えると、大丈夫です、僕に任せてください、とすぐに返事が戻って来た。「若い子の家庭教師なんかもよくやっていたので、だいたいのことは経験があります」謝礼のことなど何も話していないのに快諾してもらえた。そこで我が家に来てもらい、キッチンの使い方など家のことを説明した。「息子は17時に戻って来るので、ご飯を作って置いときます。温めてください。もし、嫌じゃなければ一緒に食べてもらえたら有難いけど、判断は任せます。冷蔵庫に必要なものは全て入れておきます。サロンにソファベッドがあるから、寝具は出しとくね。自分の部屋だと思ってくつろいで。棚に日本のウイスキーもあるから、どうぞ」「夕食は息子さんと一緒にここで食べますね。その方がいいと思う。思春期だし何か相談事があれば、僕にわかる範囲で答えられますし」「ありがとう、凄く助かる」「いつでも、タイミングがあえばお手伝いさせてください。力になれて嬉しいです」これで仕事に集中できる。シングルファザーにとって未成年の息子の子育てとハードな仕事との両立が一番大変なのだ。うまくいけば、毎回頼むことが出来るかもしれない。僕は久々期待を持った。 
 

滞仏日記「不意に出張が決まった。息子はどうする?」