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滞仏日記「ママの小さなたからもの」  Posted on 2019/03/23 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、去年の秋だったか、東京のライブハウスでのこと。終演後、一人の女性が出口で僕を待ち構えていた。「あの、お仕事の依頼をしたく、伺いました」僕は驚いた。普通、そういう依頼は個人事務所を通して連絡が入る。でも、その人はライブ会場までやって来て、当然チケットを買ってライブをご覧になった上で、僕を待ち伏せた。最近はメールでの仕事依頼が多くなった。昔は手紙での依頼が普通だったが、これも時代の流れだから別に構わないのだけど、ライブ会場で仕事を依頼されたのは生まれてはじめての経験となった。その人は「早川書房の早川と申します」と名刺を取り出した。「早川書房の早川さんということは、もしかして、ご一族の方でしょうか?」すると彼女は恐縮されて、「私は一編集者として今ここにいます」ときっぱりとおっしゃられた。カズオ・イシグロなど海外ものを数多く手掛ける老舗の出版社だった。「実は、翻訳をお願いしたくここまでやって来てしまったのです」と言って彼女に手渡されたのは「Mon amour」というタイトルのフランス語の絵本であった。

ここパリで若い学生さんらに「小説の翻訳家になりたいのですが」と質問を受けることがよくある。第七大学の日本語を学ぶ学生たちに年一度講義をしてきた。日本語を学ぶ若い学生たちの中には当然翻訳者を目指す者も多い。「ならば、あなたは外国語を学ぶだけじゃなく、母国語をしっかり勉強なさい」と僕は教えた。「フランス語の成績は良かったですか?」僕のこの質問にちょっと驚いたような顔をしてみせた学生たち、「日本語じゃなくて、ですか? 外国語大学に通っているので日本語は誰よりも得意です。フランス語は普通です。フランス人ですから」と戻って来る。「でも、どうしてフランス語なんでしょう?」「日本語の小説をフランス語に訳すわけです。それをフランス人が読むのですから、一番大事なのはフランス語が上手なこと。フランスの作家と同等の文章力が必要になる」日本文学の翻訳家を目指す人はもちろん日本語に自信のある人が多い。でも、流暢な日本語を話す人が一流の翻訳者に適しているとは限らない。僕が今まで仕事をしてきたフランス人の有名な翻訳家たちの中には驚くべきことに日本語がほとんど話せない人もいた。でも、その人はフランス語が物凄く上手なので、評価されている。どこまで中身を理解して忠実に訳したのか疑問は残るけれど、立派な辞書があるので内容は間違えることはない。でも、その逆は・・・。母国語が下手だと、どんなに意味を理解出来ていてもいい仕事は出来ない。海外文学シリーズなんかを読むとすぐにわかる。作家はこんな風には書いてないだろう、と小説家のことを心配しながら読まなければならない作品もある。僕も10冊ほどフランスで翻訳されたが、「翻訳がよくない」と言われるとがっかりしてしまう。

絵本を持ち帰ってホテルでぱらぱらとめくってみると、ママと可愛い坊やとの愛のやりとりを描いた作品だった。ママが坊やのことをどんなに愛しているのかを綴ったものだけど、お母さんの気持ちがよく表れていていい絵本だな、と思ったので引き受けることにした。子供に読み聞かせるようなものでもあるし、世のお母さんたちに共感を届けるものでもあるし、たまたま上の階に住んでいる仲良しのアシュバル君と同じ名前の坊やが登場してるということもあって、引き受けることにした。お母さんの言葉なので難しくはないのだけど、しかし、短い文章を親の気持ちを汲み取りながら日本語に落とし込んでいく作業は簡単なようでそうでもなかった。日本語にはない表現もあるし、直訳だと日本人には響かないなと思われる個所も多かった。直訳よりも、僕の気持ちをフィルターにして翻訳していく方がいいのかな、と思ったので、ちょっと遊んでみた。元の文章に忠実でありながら、最大限の遊びを試みたという方が的確かもしれない。

ママの傍にはいつも可愛い坊やがいる。ママがどんなにその子のことを思っているのか、日常を通して描いている。「わかるな、わかるわかる」と思いながら僕はその絵本のページをめくった。僕はママじゃないけど、僕の中にママの気持ちが少しはないと息子は育てられなかったと思う。パパの場合はママみたいにべったりしてあげることは出来なかった。そこが息子には申し訳なかった。でも、一緒にバレーボールをやったり、サッカーしたり、お弁当を毎日作ることは出来た。パパに出来ることは全てやった。幼い息子が寝付くまでベッドの上でゴロンと並んで横たわり、絵本を読んであげた。こういう家族も世界にはいっぱいいる。だから僕はあらゆる家族に適合できるような絵本を目指した。
「Mon amour」は直訳すると「私の可愛い坊や」となる。でも、僕はそれを「ママの小さなたからもの」と訳した。まだ経験の多くない、でも愛情がたくさんある、お母さんたちを励ます、幸せにさせる絵本であればいいのだけど・・・。 
 

滞仏日記「ママの小さなたからもの」