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滞仏日記「自分の居場所で頑張ってみる」 Posted on 2019/03/11 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、あの日から8年が過ぎた。あの日、間違いなく世界は変わった。8年前のあの日を境に、それ以前の世界とそれ以降の世界とが出現した、ような気がしてならない。あの震災の後、それまでの価値観が急に変化してしまった。どう変化したのか、はっきりと言葉には出来ないのだけれど、あの日以降、僕は身に覚えがない振動を感じるようになった。僕は日本にいなかったのだから、その振動を記憶しているはずはないのに、その日が来るとドンと突き上げてくる激しい揺れを思い出す。事故をおこしたことがないのに、車を運転しようするときに不意に事故のイメージが頭を過るような感覚・・・。身に覚えのない振動は一日中続き、僕は時々、立っていられなくなる。これはいったいどうしてなのだろう。

あの日の後、世界が違って見えるようになった。大震災の後、僕の周りの人たちも大きく変化し、なんとなく、二つに分かれたような気がする。二つというのをはっきりと区分できないのだけれど、分かり合えないものと分かり合えるものが出現したような感覚。或いは以前、分かり合えないものを僕は見ようとしてこなかったのかもしれない。かつての僕は意味もない楽観に支配されて生きていたような気がする。なんとかなる、といつも思って過ごしていたような気がする。でも、その日以降、なんとかなるという言葉を信用しなくなった。なんとかしなければ、と考えることが多くなった。

天台宗の開祖、最澄の言葉に「一隅を照らす」というものがある。昔、比叡山に登った時に山道の入り口の石柱に彫られているのを見つけ、僕の足が勝手に止まった。どういう意味だろう、と考え続けた。これは調べると「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という古い仏教書に出てくる。ちなみに、僕には信仰がないので、天台宗の方々に失礼があってはいけないのだけど、最澄さんは僕の誤訳をもきっと許してくださるだろう。一隅を照らすが登場する最澄の言葉は次のようなものだ。
「国宝とは何物ぞ/宝とは道心なり/道心ある人を/名づけて国宝と為す/故に古人の曰く/径寸十枚/是、国宝に非ず/一隅を照らす/此れ則ち国宝なりと」
ここでいう「道心」とは、道を修めようとする心のこと、仏教においては仏道を極めようとする心のことであろう。「径寸十枚」とは金銀財宝のことで、「一隅」というのは今自分がいる場所、立ち位置、或いは今自分が置かれている立場のことを指す。僕は勝手にこれを訳した。「まずは自身の道を究めることが大事であろう。しかしそれは人を押しのけて名声を高めることではなく、社会の片隅で人に気づかれまいと、この世界を照らし続ける無名の行動の中にこそあり、実はそれこそが社会の宝なんですよ」となる。つまり、注目されなくても、自分の居場所で出来ることをコツコツとやることの大事さを説いている。ベストを尽くすという言葉があるが、本来、こういうことじゃないか、と思う。自分の居場所で自分に出来ることを精一杯やること。最澄はその遠い昔に、現代の私たちが抱える大震災以降の心の在り方について、言葉を送ってくださったのじゃないか、と思った。「一隅を照らす」というのは、隅っこに光りを当てるということだけじゃなく、その光りを当てている者も一隅の一部であり、その一部の人間こそがこの全体の世界を構成しているのだから、それぞれがベストを尽くそうとする思いが、或いは祈りが、この世界をもう一度照らす行動なのだとおっしゃっている気がしてならない。
 

滞仏日記「自分の居場所で頑張ってみる」