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滞仏日記「女子力高い日本の不思議」 Posted on 2018/12/20 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、1月18日にパリで行う日仏文学シンポジウムの件でスタッフたちと会議を行った。僕は今回、このシンポジウムのオーガナイズとディレクターを担当する。依頼を受けたのが先月なので突貫工事もいいところだが、両国における女流文学の歴史と対比みたいなことをテーマに討論会などを行なう予定で、三部構成になっている。第二部の日仏を代表する女性作家たちのシンポジウムが見どころになるだろう。フランスの作家はフェミナ賞作家のナンシー・ヒューストン氏とルノド賞など数多くの受賞歴のあるステファニー・ジャニコ氏が決定した。急だったのでここの交渉ごとに一番神経を使った。まず出席してもらいたい作家の作品を手掛けた出版社に連絡をし、そこから作家につないでもらう、というやり取りが続いた。でも、素晴らしい二人が決まって安堵している。対する日本側作家は林真理子、桐野夏生、角田光代の三氏が決定した。現代日本文学を語る時に欠かせない三人なので意味あるシンポジウムになるはずだ。

しかし、そもそもフランスには女流文学という言葉がない。最近の日本の書店事情に僕は疎いから的外れかもしれないが、昔は書店に女流文学コーナーなるものがあった。女性作家だけを集めた書棚である。はじめてその棚を見た時、これって気持ちはわかるけど男女を分けるのって差別的だなと思ったのと同時に、ここが光ってる、羨ましい、という二つの感想を持った。で、そのことをフランスの作家仲間に話したところ、日本らしい、と笑われた。フランスはフェミニズムの国だからこそ、逆にそういう分け方をしない。女流作家の棚を作って女流作家を応援するということに女流作家側がどう思っているのだろう、といつも考えていた。

少し前のことになるが、某新聞社から取材を受けた時、「辻さんって料理とかできて女子力が高い」と編集部の人に言われた時、僕は違和感を覚えた。女性が女子力という言葉を好んで使う日本ってやっぱりその底辺のところで男性優位を認めているんだな、と思った。おやじたちを捕まえて男子力高いっすね、という話にはならない。女性は女子力という言葉の侮蔑的意味を真剣にとらえて、これに反抗すべきだと思う。そういうものは褒められたわけではないと僕は考える。女子とはこういうイメージみたないなものはフランスにはゼロなのだ。たとえば、誰かがテレビとかで女子力高いっすね、と言ったら、どれだけ総スカンをくうことか。

息子の学校で親の集まりがある時、日本だとお母さん方がほとんどだが、フランスでは半分は男性である。仕事はどうしているのか、と心配になるが、子供優先だし、両親が半分半分受け持つのが当たり前という意識がある。会社でも女性の取締役なんて男性に負けないほどに多いし、子供は両親が分担して育てて、仕事も一緒にやっている。それが普通なので、女子力高いというフランス語は存在しないし、通じないのだ。

今回、国際交流基金側から女流文学のシンポジウムをやりたいので女性作家を集めてほしいと提案された時、それはこの国では通じないと一瞬悩んだが、よく考えてみたら、それが面白い、それこそ日仏の比較になると思うようになった。林さんや桐野さんや角田さんがこの問題をどう考えているのかをぜひ聞いてみたい。フランスの作家たちから日本の女流文学というものにどういう意見が出るのか、こちらも楽しみである。きっとこの五人の作家がとってもいい方向を提示してくれるのじゃないだろか。1月18日のシンポジウムはフランスの出版界や文芸メディアから多くの人が集まる。日仏友好160年の記念すべき会になることであろう。
 

滞仏日記「女子力高い日本の不思議」