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滞仏日記「夢とは何か? 縁起とは何か?」 Posted on 2019/01/02 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、子供の頃はたくさんの夢があった。青年時代も成人してからも夢を持たなかったことがないし、夢は必ず希望を連れてきた。夢を見ることが生きる上での糧となっていた。けれどもある程度の年齢を重ねた頃から、夢に期待をし過ぎないよう心掛けるようになった。もちろん、夢を捨てたこともないし失ったこともない。けれども、全ての夢が実現しないということを僕は年齢とともに悟った。若い頃はなんでも夢で片付けられていたが、もはやそうもいかくなった。夢という言葉の代わりに目標という言葉を頻繁に使うようになったが、正直、しっくりこない。2019年になった途端、僕はきらきらと瞬くエッフェル塔を見上げながら、しかし、夢というものは実現しないからこそ夢なのではないか、と思いついた。シャンドマルス周辺には大勢の人がいて、みんなシャンパンとプラスティックグラスを持っていた。カウントダウンがはじまり、エッフェル塔がシャンパンフラッシュに包まれると同時にあちこちで抜栓の華やかな祝砲が鳴り響きはじめた。毎年パリは31日から元日に変わる瞬間、こんな感じになる。若者たちは車で市内を暴走し、爆竹が鳴り響く。シャンゼリゼ方向で花火が豪快に打ちあがった。人々はシャンパングラスやコップを高々と掲げ新年を祝った。僕は息子とその友達、ロマンとコンスタンタンを引率していた。息子が僕のところに走って来て、「今日はロマンの家に泊まってもいい? 三人とも音楽が好きなんだ。音楽の夢を持ってるんだよ」と言った。音楽の夢、という響きがあまりにも素敵だった。

帰り道、現実的に描いた夢を実現させていくことも人生を転がす上で大切なことなのじゃないか、と考えた。夢を実現できない時の失望感ほど苦しいことはない。欲深い僕はそのせいで何度も挫折を味わっている。そこで数年前から「遠くの大きな夢ばかり見るから苦しくなる、近くにあるささやかな夢をまずは確実に実現させていくことを心がけよう、果てしない男のロマン、みたいなキャッチコピーに踊らされてはいけない」と自分に言い聞かせてきた。見逃しそうなささやかな喜びに幸福を見つけることが必要である。夢も大きければいいというのではない。むやみやたらではなく、実現に向けて少しずつ少しずつ進む日々の中にある幸福を拾ってこその人生なのだ。僕はエコールミリテール駅前のカフェのテラス席に陣取り、帰宅する大勢の人々を眺めながら、今年はそういう年にしなければ、と自分自身に言い聞かせていた。

いつ見た夢が初夢なのか、という問いかけには諸説あるが、僕は年が明けて最初に見た夢を初夢と呼んでいる。ということは、今朝見たのが初夢のようだが、正直、いい夢でも悪い夢でもなかった。忙しくて仕事に振り回されてくたくたになっている、恐ろしいほどに現実的な夢で、それを朝の7時に帰宅した息子に起こされ、結末があやふやなまま、かき消されてしまった。「どうしたの? ずいぶん早いじゃないか? 泊まらなかったのか?」「眠れなかった。朝6時までみんなで夢について語り合ったのだけど、その後、僕だけ眠れなくなって。パパ、夢って何だろうね」僕は笑った。息子の肩を抱きしめてから、それはいい質問だ、でも、答えは簡単じゃない、と告げた。息子を寝かしつけてから、僕は自分が見ていた初夢を思い返してみた。昔から、縁起のいい夢に、一富士二鷹三茄子というのがある。正直、僕は今まで一度も富士山も鷹も茄子も夢の中で出会ったことがない。縁起に見放されているからだろうか? いいやそうじゃない。それを見たからと言って、いい一年がおくれるということではない。縁起のいい人生をおくりたいと思っているだけで十分縁起がいい話しじゃないか。縁起とは仏教用語で吉凶の前触れをさす。悪い縁起もあればいい縁起もある。いい兆しのことである。ならば、めちゃくちゃ忙しい夢ということは、それだけ今年も仕事が山ほどあるという兆しじゃないか、それは自分が頑張っているからこそのくたくたなのだ。勝手にいい方へと解釈する時に、いい縁起、は訪れる。結局、夢というものは自分次第でどうにでもなる。夢は目標ではない。夢は希望だと思う。実現できなくてもそれを持つことで生きたいと思える兆しこそが夢なのだ。
 

滞仏日記「夢とは何か? 縁起とは何か?」