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滞仏日記「パリのカフェで失敗しない方法」 Posted on 2019/01/11 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、息子が学校に行き、エッセイを一本書き上げたら、行きつけのカフェに行く。日課だ。行きつけは近所に3軒ほどあり、順繰り、その日の気分で毎日一度はどこかのカフェで席を温めている。在仏歴17年の僕がはっきりと断言できることは「カフェではじまりカフェで終わるのがフランス」ということだ。自分の家でも美味いコーヒーを飲めるが、必ず行きつけのカフェに行く。飲むためじゃない、行くことに意味がある。そこで「アロンジェ」を注文する。日本の「アメリカン」にあたるのかな。正確に言うと、「エスプレッソ」を湯で薄めたものだが、日本のアメリカンのような薄味ではない。日本で暮らしていた頃、アメリカンコーヒーが大好きだったが、最近は薄すぎて飲めなくなった。イタリアはフランスよりももっと濃い。個人的にはイタリアのエスプレッソは本当にかっこいい飲み物だと思う。渋いマカロニウエスタンって感じで、苦みばしったクリントイーストウッドのような顔になりながら飲む。でも、パリの「エスプレッソ」は人生のきつけ薬のような感じでとりあえず飲めば安心できる。エスプレッソに数滴ミルクを垂らしたものを「ノアゼット」と呼ぶ。ノアゼットとはフランス語でヘーゼルナッツのことだが、もちろん、そんなものは入ってない。でも、言われてみるとそう感じなくもない。渡仏したばかりの頃、「ノアゼット」はヘーゼルナッツ味のコーヒーだと信じて疑わなかった。この数滴のミルクのこだわりがパリのカフェ文化の真髄だったりする。

同じように「カフェ・オ・レ」もパリジャン、パリジェンヌは違う呼び方をする。「クレーム」だ。「クレームをつける」のクレームではなく、クリームのことなんだけど、発音は「クレンム」に近い。カフェ・オ・レという注文の仕方は外国人観光客で、クレンムと注文しているのはフランスで暮らしている人、ということになる。僕の行きつけのカフェは本当に地元の人しかこない、しかも人気店で、連日朝から晩まで賑わっている。カウンター席とテラス席と奥の席の三ブロックに分かれているが、カウンターは労働者や警官やサラリーマンなどが、テラス席は地元のご隠居とか観光客とか或いは僕のような暇つぶし族で占拠されている。奥のホールはいろいろ。でも、長いこと居座る系の人が多い。地区や企業の人たちのミーティングルーム的な。ちなみに、コーヒーの料金が席によって異なる。カウンターで立ち飲みするのが一番安い。チップも払う必要がない。中の席と外の席でも異なる(店によるけど)。フランス人はチップを置かない人が多いけど、まあ、僕は気持ち程度必ず残していく。11時半を過ぎるとランチの準備が始まるのでコーヒーだけというのは頼みずらいし、店によっては断られるところもある。12時15分には追い出される。ランチ時間はどこも満席、賑わっている。昼時に混んでない店に絶対入らない。いや、そういう店は潰れる。
 

滞仏日記「パリのカフェで失敗しない方法」

夕方、お爺さんたちが面白いものを飲んでいた。エスプレッソと強そうなアルコールを交互に。注文する時も、「カフェ・カルヴァ」と叫んでいた。エスプレッソの横に置かれたショットグラスの中身はカルヴァドスであった。それを交互に舐めるのだ。このお爺さんたち、それを3回ずつ繰り返した。めちゃくちゃ美味そうだったので、真似してみたら、恐ろしいくらいにハマった。なんで今までこれ知らなかったの? こんなに凄い飲み物があったことを僕はこの年齢まで知らずに生きてきてしまった。逆を言えば、それくらい世界にはまだまだ知らない凄いものが存在するということだ。たかがこんなことで人生は十分に嬉しくなる。お爺さんたちの笑顔も最高だった。

僕は午前中、ランチ前にカフェで時間を潰し、それから午後息子が帰ってくる前、買い物帰りなんかに買い物袋ぶら下げて立ち寄る。だいたい、テラス席に陣取る。くだらないこと、記憶を漁ってみたり、哲学の端切れを噛むような妄想に浸ったり。ここのところはライブが近いので曲順で悩んだり、次の小説に取り掛かっているので主人公をどこで殺そうか、とか。人生に疲れた時も、ウキウキするようないいことがあった時も、そこでにやにやしたり、俯いたりしている。天井に温熱機がついているので(物凄く電気を無駄にしていると思うけれど・・・)、外の冷たい風にあたりながら熱線で頭部を焦がしながらコーヒーをすすっている。夜、カフェは人が少なくなる。僕の行きつけは夕食を出さないから、息子に夕飯を食べさせてから、カウンターでワインなんかを舐める。そこの名物カクテルは卵白で割ったウイスキーだ。身体が温まる。よく通りですれちがう地元の人たちばかりが集ってる。ボンソワ、と笑顔を向ければ、必ず笑顔が戻って来る。いいカフェがあるとないとでは光りがあるかないかくらい違うだろう。僕は引っ越しをする時、まずその土地のカフェに入ってから決めることにしている。今の街に越す決定打はカフェの存在であった。物件に負けないくらいいいカフェがあるかないかで生活の意味が変わってくるのがパリなのだ。とにかく、パリはカフェで成り立っている。カフェではじまり、カフェで終わる。日々の始発駅であり終着駅でもある。
 

滞仏日記「パリのカフェで失敗しない方法」