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滞仏日記「人生に疲れた僕の電柱作戦」 Posted on 2019/01/21 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、僕は時々、人生に疲れて動けなくなることがある。前兆とかがなく、しかも、定期的に突然襲われるものだから始末に負えない。電源が落ちたような状態になり、動けなくなるのだ。何かつかみどころのない不安とか疲れとか絶望に見舞われるのである。家事とか子育てとかは待ったなし。シングルファザーになって6年目に入ったが、最初の頃はやるしかなかった。自分がやらなければ息子の人生が終わってしまう。そういう火事場のクソ力で頑張ってこれたが、小学生だった子が高校生になろうかというところまで育てあげた安堵もあるのだろう、今頃になって反動が出てきた。或いは年齢的な問題もあるのかもしれない。離婚後、胃がずっと重く、痛いわけじゃないのだけど、すっきりしない状態が続いている。家事をやりながら、たとえば不意に包丁が止まって動かせなくなる時がある。掃除をしている時に掃除機だけが回り続けて電源の切れたロボットのようになってしまうこともある。幸せが不足しているのだ、と気づいた。ビタミンや鉄分不足のようなものであろう。もちろん、子供といることでの幸せはたくさんあるけど、幸せというものは一緒にそれを喜べあえる存在が必要なのかもしれない。「今、幸せだよね」というものを誰かと分かち合える時に、はじめて幸せというあいまいな雰囲気はよりはっきりとした幸せへと上場する。頑張ってるね、と誰かに言われることが人間にはとっても重要なのだということ。いいよ、いいよ、と許してくれる人がいくつになっても大事なのである。子育てや家事が嫌なのじゃない。それは自分しかできないことだから、親としてやるが、僕という人間だって生きているので、その僕のことは誰が面倒を見てくれるのだろう、と考えない日はない。同じような心の空洞を抱えて生きている人が世界中にいるのだ、だから負けるな、と考えることが今の自分の慰みや励みにもなっている。これを無意識の同時代的連帯感と呼んでいる。

今日、不意に林真理子さんと桐野夏生さんが我が家にやってくることになった。誘ったのは僕だ。パリにいることを知っていたし、誰かと会いたくなった。作家というのはだいたい仲が悪い。作家というのは奇妙で神経質で変わり者が多い。だからあまり作家同士で仲良くしている人はいない。でも、お互い悪口を言い合っていても作家の気持ちは作家にしかわからないこともある。ある程度の経験がある作家であれば、共通の苦労や体験をしているからだ。僕も30年選手だが、林さんも桐野さんもキャリアが長いので、気が合うかどうかわからないけれど、多分、僕はそこに何かの憩いや刺激を求めたのだろう。日曜日だし、レストランは開いてないから、うちに来れば、とお誘いをしたら、買い物帰りにやって来てくれた。得意の料理をすることでこの動かなくなった心と体をもう一度再起動させることも出来た。目標というのか、次の電柱までとにかく歩いてみよう、と思うことは大事で、次の電柱までたどり着いたら、その次へ、という風に進む方法もある。僕はそういう人生の前進の仕方を「電柱作戦」と呼んでいる。電柱作戦のいいところは、とりあえず進む力を与えてもらえるから、よけいなことは一旦忘れることが出来る。しかも、そこへ向かう仮の気力が人生を繋ぐ。大きな目標よりも、人生に疲れた時には「次の電柱まで歩いてみよう」という小さな気力に救われることもあるのだ。鱈の肝臓にサクランボで作ったソースをかけた小さな穀物どんぶり、胡桃とアーモンドのクリームソースをかけた鴨のパスタ、そして和風のクスクスと鯖と半熟煮卵のごはん。これだけのものを作っていると達成感がある。それを食べてもらえて「美味しい」と言ってもらえる時に、僕の中のもう一人の僕が動き出す。電気が流れて、動かなくなっていたロボットの僕がふっと顔を持ち上げるのだ。その時に、目に光りが宿ったりする。僕はそれを気力と呼んでいる。
 

滞仏日記「人生に疲れた僕の電柱作戦」