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人生は後始末「自由ってなんだろう?」 Posted on 2017/05/06 辻 仁成 作家 パリ

今、自由でしょうか?

自由になりたい、と誰かがつぶやきます。
じゃあ、その自由とはなんでしょうね。
 

人生は後始末「自由ってなんだろう?」

 
幕末期、英語のリバティが「自由」と訳されました。
自由の「由」にはいろいろ意味があります。
よりどころ、理由、いわれ、口実、趣旨、事情、手段、縁、風情…。
これらの単語の前に「自らの」とつけると面白いですね。
自らのよりどころ、自らの口実、自らの事情、自らの風情…。
幕末の人々がリバティという言葉を必死で考えた様子が伝わります。

現代、自由は保証されています。
でも、私たちはなぜ自由を実感できないのでしょうか?
人間的欲望をそこにすべて託しているからじゃないのか。
自由という言葉には複雑な罠が張り巡らされています。
「俺は自由だ。なんだってできる」と誰かが叫びます。しかしこれは大間違い。
自在と自由を混同しているにすぎません。
もともと、リバティは「自在」と翻訳されたのですが、微妙に違うということになって、
「自由」に落ち着きました。
自在とは、たとえば「相手を自分の意のままに操る」ということ。
これは独裁と一緒、みんなが自在を実践すれば世界は成り立ちません。
「自由」はむしろその対極にあるのかもしれない。
この限りある世界で相手との関係性を考え抜いた上で、思慮分別を伴って自らの「由」を探ること。
 

人生は後始末「自由ってなんだろう?」

 
十代のころ、小生は無邪気に「自由」を連呼していました。
「フリーダム」という曲まで作ったほどに。いい曲でしたけどね(笑)。
自由という単語はロックミュージックや詩や映画のセリフに多用されました。
でも、前の世代、六十年代のヒッピーたちが夢見たような自由はなかった。

自由というものはそう考えるととっても不自由な哲学です。
自由になりたい、と思う時の「自由」とはかけ離れている気もします。
自由という哲学はむしろ人間に問いかけている。
それは物欲や性欲やありとあらゆる欲望を解放することではなく、逆に、自分を見つめること。
その結果としての自己の解放じゃないでしょうか。

自由をむやみに口にするのは、きっとあまりよく自分を知らないからです。
自分を突き詰めていく時に見えてくるものがあります。
自分から解き放たれることが自由なのかもしれない。
「自由」という言葉が人々を苦しめている気がしてならないのです。

「自由になりたい」
いいえ、あなたはそもそも自由なんですよ。
自由であるかそうでないかは、自分が決めることです。
時の独裁者に拘束されたとしても、小生の思想は誰にも支配することができません。
 

人生は後始末「自由ってなんだろう?」

 
今日の後始末。

「自らの由を知り、自らを良しとする」