PANORAMA STORIES

チャイ・オン・ザ・バランス Posted on 2017/02/28 石井 潤一郎 美術作家 パリ

「あの河の向こうがロマ・エリアよ」(※1)

対岸を指差して、宿屋の娘メルベは言った。

河岸に並ぶ半壊したレンガ造りの建物の向こうから、笛や太鼓の音が響いてくる。

「他所のことは知らないわ。でもここにいる彼らは音楽を奏でて、踊りを踊りながら生きているの。きっと大昔にそう決めたのね。それが当然のことだって思ってるのよ」

トルコ。ダーダネルス海峡を望む港町、チャナッカレ。
滞在している宿屋の屋上、参加しているアートフェスティバルの関係者と、トルコ紅茶(チャイ)を飲んでいる。

チャイ・オン・ザ・バランス

参加しているのは50年以上の歴史を誇る市の文化行事。
期間中、町のあちこちで絵画展や写真展が催され、パフォーマンスやコンサートも行われる。
そして、河口一帯に広がるロマ人たちの居住地区、通称「ロマ・エリア」が、今回の作品の舞台である。

様々な企画で構成されるこの種類の展覧会において、パブリックアートには「普段交わらない社会」同士を繋ぐような一面がある。

どれくらいの人々が生活しているのか、正確なところさえ分かっていないような町の「ディープな地区」で、
「アートなんて必要ない」かもしれない人々と、私はどのようにコミュニケーションを計ったものか?

土地には土地の速度がある。「アート」の名のもとに、一方的に「作品を投下」するのではなく、私にも学ぶべきがあるだろう。そこに住まう人々、展覧会場に足を運んでくれる人々、そして純粋に作品としての強度。この三項を繋ぐものは一体何か?

宿屋の屋上。私はチャイグラスを空にかざす。

透明なグラスに注がれた、ルビー色の紅茶は美しい。
トルコでは人々はこれを、1日に3杯も4杯も5杯も6杯も・・・仕事の前に、仕事の合間に、港で、カフェで、宿屋の屋上で、チャイを飲む前とチャイを飲んだ後にもチャイを飲む。それはもう「展覧会の準備大丈夫?」と思わず問いたくなるくらい・・・

そうしているうちに、私はふと気が付いた。これは人間関係の「緩衝剤」のようなものではないだろうか。

「東洋と西洋の架け橋」トルコ。「普段交わらない社会」は、ロマ人コミュニティに限ったことではない。古来より文化の往来が活発な土地だったからこそ――まずはチャイ――そんな習慣が根付いている。それは、異なる価値観の衝突を避ける、「平和の知恵」のようなものだったのではないか。

チャイ・オン・ザ・バランス

閉鎖された教会近く、屋根のない廃屋、15m×7mのこの空間に、私は「チャイを吊り下げる」。

4mの壁の頂上付近に、1m間隔で格子状にケーブルを張る。縦横のケーブルが交差する地点から糸を落とし、地上80cmの高さにチャイを吊る。「交差点」は72カ所、つまり72杯のトルコ紅茶が空間に揺れる。観客は「紅茶の間」を、自由に歩いて回ることが出来る。

作品内を歩くときは「少々気をつけて」頂かなければならない。紅茶はソーサーにただ「乗っている」だけである。

ある土地の文化・社会的様相が、自身のものと照らし合わせてどれほど奇異に、時に不道徳にさえ見えたとしても、それは長い時間をかけて達成されてきた、均衡(バランス)の上に成り立ったものである。

今日、私たちは境界を越えて、異なる領域に比較的自由に侵入することが出来る。
しかし、価値観を違える他者への想像力を欠いた行動は、時に無自覚の暴力となり、そこにある素朴さを破壊してしまうかもしれない。

――文化とは宙吊りにされた無防備なチャイ、ルビー色の輝きは美しいが、ヒザで蹴っ飛ばしてしまえば落ちて割れる――

私が生成しようとしたものは、国境地帯に侵入するような身体感覚を伴った緊張感であり、「脆さ」のイメージによる、観客との対話であった。

チャイ・オン・ザ・バランス

夕暮れ。ロマ人の少年たちが会場内に駆け込んで来た。

「・・・チャイ?」

彼らは彼らの言語を喋りながら、宙吊りのチャイを指差して訊ねる。

「チャイ」

私は肯定的なイントネーションで彼らに答える。
少年たちは無言でしばらくそれを見つめて、それから指先で軽く押した。

――弧を描いてゆっくりと「天秤」が揺れる。

町の奥の方からは今、夕方のコーラン(イスラム教の経典)が聞こえ始めた。

※1) ロマ人とは移動型民族のこと。主に中東欧に居住する。

Illustrations by
Kaori Mitsushima

チャイ・オン・ザ・バランス

Work information
Chai on the Balance
Canakkale 2007 / Istanbul 2008, Turkey / upcoming: Osnabrück 2017, Germany



Work & Photography by Jun’ichiro ISHII


Posted by 石井 潤一郎

石井 潤一郎

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Jun’ichiro Ishii
美術作家。福岡生まれ。2004年より、アジアから中東、ヨーロッパを中心に、20カ国以上でサイトスペシフィックアートを制作・発表。国際展「10th International ISTANBUL BIENNIAL : Nightcomers(トルコ ’07)」「4th / 5th TashkentAle(ウズベキスタン / ’08 / ’10)」「2nd Moscow Biennale for Young Art(ロシア ’10)」「ARTISTERIUM IV / VI(グルジア / ’11 / ’13)」参加他、個展、グループ展多数。パリ在住。