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嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ Posted on 2018/06/11 エンギュエン 矢吹 ことみ 主婦 スイス、ラ・ショー=ド=フォン

その狡猾で不吉な黒い翼を自ら名乗った近代建築の巨匠、ル・コルビュジエ(Le Corbusier)。
本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)スイスフランの10フラン札の顔です。
感度の高いデザインストーリーズ読者の皆さんにはもちろん説明不要のスーパースターであります。
 

嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ

ヨーロッパに住んでいると歴史的な建築物や美術品などが身近に存在しているので、意識さえすれば生きた教科書の上を歩いているような気持ちになります。
例えばパリ16区、閑静な住宅地に建っているラ・ロッシュ邸は小さいながらも近代建築の五原則が盛り込まれているル・コルビュジエの代表的な作品です。僅かな入場料を支払えば、思い立ったその日にでも気軽に世界遺産の建築物内を見学出来るという事なのです。
偶然にも彼の出生地、ラショードフォンに住んでいる私。幸運な事に自宅から徒歩圏内にル・コルビュジエの初期作品が点在しています。こちらは代表的な初期作品として有名なジャンヌレ=ペレ邸、通称ラ・メゾン・ブランシュです。
 

嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ

高台にひっそりと鎮座しているこの真っ白な邸宅は、ル・コルビュジエが自身の両親のために膨大な建築費をかけて建てた初期の代表的な作品で、完成して数年はコルビュジエ本人もそこで生活をしたそうです。その後時計技師である父親の仕事が振るわず、母親のピアノ教師としての収入のみでは家計を支えられず、ジャンヌレ家は邸宅を他人の手へと引き渡すこととなります。コルビュジエは売却後も室内内装にも異様な程の強いこだわりを示し、自身の構想に合うアンティークや自身が設計した家具などを購入するように勧めたそうです。このジャンヌレ邸は20世紀の先駆的建築の例証であるとともに、ル・コルビュジエ本人の進歩の証でもあります。
実際にこの街に点在する他の初期作品に共通するアール・ヌーヴォーとは決別している事が見てわかります。
 

嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ

コルビュジエは時計盤エナメル職人である父親の家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校で懐中時計の彫刻と彫金を学びました。イタリア・ミラノの装飾学校芸術国際展で彫金時計が入賞するなど非常に優秀な生徒であった反面、弱視というハンデは完璧主義者であるコルビュジエを複雑に悩ませ、次第に別の道へ進ませます。その後、恩師である装飾学校の学校長の勧めで建築に興味を持ち始め、パリでオーギュスト・ペレに、ベルリンではペーター・ベーレンスに師事し、短期間ではありましたが実地で建築を学びました。ベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを旅し、ラショードフォンに戻った後は 自身が卒業した装飾美術学校で美術の教師として数年間、教鞭を執っていました。
因みにこちらのEAA装飾美術学校は現在でも数々の時計職人やプロダクトのデザイナーを生み出している名門学校としてラショードフォンに存在します。時計メーカーで働く夫のチームのデザイナーもEAA出身。そして彼の父親、祖父もEAA出身の時計職人。
 

嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ

そんな歴史あるEAA装飾美術学校から離れたコルビュジエは一念発起しパリで画家を目指します。しかし当時のフランスはご存知の通り戦後復帰したキュビズムの全盛期。すぐに他の道へシフトチェンジし数年間、鉄筋コンクリートの会社に勤めます。その後やはりクリエイターの血が騒いだ のでしょう。友人であるダダの詩人ポール・デルメ、ピュリスムの画家アメデエ・オザンファンと共におもしろい事をしよう、と雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」(L’esprit Nouveau)を創刊します。
この頃からル・コルビュジエというペンネームを使うようになったそうです。このペンネームは祖先の名と、冒頭で触れた仏語でカラスを意味するcorbeauを組み合わせて作ったものだと言われています。その後、従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に事務所を構え「レスプリ・ヌーヴォー」に掲載された自らの記事をまとめた著作「建築をめざして」(Vers une architecture)を発表し、世界中の建築家から注目を集めました。この著作の中の「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉は、ル・コルビュジエ建築思想の代表的なものとしてよく引用されます。
しかしその「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉に真っ向から異を唱えた人物がいた事を知りました。その人こそ、ル・コルビュジエが生涯で最も嫉妬し、最も愛憎した才能の持ち主、アイリーン・グレイ。アイルランド出身の女性建築家です。
 

嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ

当時の社会は旧弊な男性優位主義と、「モダニズムの父」とされる建築界の巨人ル・コルビュジ エとの確執によって、グレイの存在は長い間、消されかけた存在でした。グレイにより、コルビュジエは自身の異常なまでの完璧主義、また非常に強すぎる美への探究心を目の当たりにします。

南仏、ロクブリュヌ=カップ=マルタンの海辺に立つ、「E.1027」と名づけられた別荘は、長い間「ル・コルビュジエの家」として知られていました。
 

嫌われ者、孤高の烏、ル・コルビュジエ

コルビュジエ自身それを否定せず、むしろそう思われることを喜んでいたそうです。実際に設計したのは女性建築家の草分けであるアイリーン・グレイです。家具デザイナーとしても重要な実績を残したグレイは「住まい手の個性にもっと寄り添う」という手法をとっており、コルビュジエが提唱した「近代建築の五原則」に挑み、自分なりのモダニズム建築を完成させました。女ごときが私と張り合うとは! と怒ったコルビュジエはグレイの評価をおとしめる奇行をたびたびとっており「E.1027」の落ち着いた淡い色の外壁に、裸体姿で卑猥な落書き(?!)をした事も。グレイの同意を得るどころか、彼女が知らないうちに、家の装飾を自分のスタイルに変えてしまったり……。グレイは女性で未婚者でありアイルランド出身の外国人だったため、フランスでこの家を法的に所有することができなかった為に泣く泣く手放すことになるのですが、コルビュジエは「E.1027」が見える場所に休暇小屋「キャバノン」を建て、そこで「E.1027」を見張っていた、なんていう激しい執着が垣間見れる逸話も。 最終的にコルビュジエはこの小屋と「E.1027」があるカプ・マルタンで海水浴中に心臓発作で死去します。

また生前のコルビュジエはフランスの「裏切り者」としても名を馳せていたそうです。第二次世界大戦、ナチスの傀儡としてフランスを統治したヴィシー政権に近づきこの時レジスタンス側に仲間入りしてフランス本国と植民地の都市計画の責任者になってみたり(後に解雇された ので実務には当たっていない)スターリン独裁体制のもとで行われたモスクワ宮殿のコンペに参加し、イタリアのファシスト独裁者ムッソリーニに謁見を求め、計画都市ポンティーニアのプロジェクトに参画しようとしていたり。ムッソリーニに拒まれて以降も何度もムッソリーニに手紙を書き、作品集を送り、ローマ郊外開発計画を提案するなどして必死に売り込みを図ったりしたとか……。

もはや私が想像していた「お洒落な建築家ル・コルビュジエ像」は掻き消され、一癖も二癖もある「野心家」「異端児」「裏切り者」黒くて丸い瞳は、まさしく嫌われ者でずる賢いcorbeau(カラス)そのもの……。しかし、それも近代を代表する建築家ル・コルビュジエの魅力なのでしょうか?
 
 

Posted by エンギュエン 矢吹 ことみ

エンギュエン 矢吹 ことみ

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KOTOMI YABUKI NGUYEN
スイス、ラ・ショー=ド=フォン在住。夫はスイスの大手時計メーカー勤務。私は新米主婦、フランス語と格闘中の25歳です。