PANORAMA STORIES

デス・イズ・ノット・ジ・エンド Posted on 2016/10/26 佐藤 久理子 文化ジャーナリスト パリ

デス・イズ・ノット・ジ・エンド

8月のヴェネチアは蒸し暑い。運河に立ちこめる、ちょっと臭気を帯びた水の匂いが、観光客のあふれる開放的な目の前の風景とは反対に、どこか退廃的な香りをもたらす。どんよりと水が留まる運河の小路は、そこだけ時間に置き去りにされたかのようだ。
ヴェネチアを舞台にした映画といえばヴィスコンティの『ヴェニスに死す』が有名だが、わたしはむしろニコラス・ローグの『赤い影』を思い出す。水死した娘の幻影にとりつかれる主人公が、その影を追って、この街に張り巡らされた迷路のような運河を彷徨う。この映画を観て以来、ヴェネチアはわたしにとってちょっと怖いところになった。まるで次の路地を曲がるといきなり人ごみが絶え、ひっそりと死神が立っていてもおかしくない、というような。

今年のヴェネチア映画祭で、アンドリュー・ドミニク監督の『One More Time with Feeling』という作品を観た。ニック・ケイヴの新譜「Skeleton Tree」の制作過程を追った、美しく、胸を突くモノクロの3Dドキュメンタリーだ。ふたりは9年前、ケイヴがドミニクの『ジェシー・ジェームズの暗殺』で音楽を担当して以来の盟友で、新作は昨年、双子の息子のひとりを崖からの転落事故で失うという悲劇に見舞われたケイヴが持ちかけたという。「ニックはどこかに捕らわれたままで、なんでもいいから前に進むきっかけが欲しかったのだと思う」と、ドミニクは語っている。
モノクロの3Dを選んだのは、「昔の写真が息を吹き返し、蘇るかのような感じを出したかった」監督の選択らしいが、なるほど、観ているうちにこれは3Dということを忘れてしまう。代わりに彼らと同じ空間に自分が立ち会って、何かが徐々に生まれていく過程を目撃しているような錯覚をもたらされる。それはケイヴにとって苦しい、手探りの時間だ。彼は鏡を見ながら、ぼそりとこうつぶやく。「人間はみんな変わりたくない。でもとんでもないことが起こった後は、人は変わってしまうものなんだ」「鏡に映った自分はいままでと同じに見えるけれど、中身はまったく別人になってしまった」
ここには、ひとりのアーティストが困難な時期にもがきながらも創作に魂を傾け、生みの苦しみを経て何かを達成する痛切な姿が映し出されている。それが心に響く。

この映画を観ていろいろなことを考えるうちに、はたと自分が大学時代に撮った8ミリ映画のことを思い出した。それは主人公が“飛ぶ”話だった。といっても、SF映画だったわけでもドラッグの幻覚話だったわけでもない。主人公の男が最後に、ビルから飛び降りるのだ。端から見ればそれはたんなる自殺かもしれない。だが、彼は死にたかったわけではなく、飛んでみたかった。飛んだらそこに何があるのか、何が見えるのか知りたかった。そのときに、飛んだら死ぬ、などとは考えなかった、否、それよりも飛んでみたいという衝動の方が大きかったというべきか。
かつてボブ・ディランが作曲した「デス・イズ・ノット・ジ・エンド」という歌があり、ケイヴもカバーしていたことを思い出す。そう、死は終わりじゃない。きっとすべてがいままでと同じではないだけ・・・。ケイヴにもう一度この歌を歌ってほしい。

Posted by 佐藤 久理子

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Kuriko Sato
文化ジャーナリスト。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「FIGARO Japon」等でその活躍を披露。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)がある。