PANORAMA STORIES

ちっちゃな娘と徐行運転中! Posted on 2017/11/09 溝口 シュテルツ 真帆 編集者、エッセイスト ドイツ・ミュンヘン

ちっちゃな娘と徐行運転中!

6月の末、娘が無事に産まれてきてくれた。私のおっぱいに貼りつく、この小さくて、まあるくて、やわらかな生き物を抱いていると、これまで経験したことのない不思議な愛しさが、心の底からじんわりとわいてくる。
 

ちっちゃな娘と徐行運転中!

しかし、当然のことながら生活は激変。彼女の空腹、不快、眠気、そのほかのよくわからない、しかし激しい要求にあらゆることが中断され、分断される日々だ。
(ここまで書くのに、何度彼女が眠るベビーベッドのほうを見やっただろう!)

東京からミュンヘンにやってきて3年、ゆったりと流れるドイツ時間にアジャストしたつもりだったが、まだまだ甘かった。子どもがいると、例えば外出するにしても、すべての準備にいちいち時間がかかり、地下鉄に駆け込むわけにもいかず、ぐずり出せば立ち止まってなだめすかす。まるでちっちゃな足にぎゅうっとブレーキを踏まれ、徐行運転をしているような気分になる。

というわけで、街中を早足で行くことが難しくなった代わりに、ベビーカーを押しながら公園に出かけて、ゆっくりと散歩をするのが私と娘の日課になった。買い物ついでにすぐ近所の公園を通り抜けるだけのこともあれば、ちょっと余裕のある日には地下鉄を乗り継いで、エングリッシャーガルテンまで出かけることもある。
 

ちっちゃな娘と徐行運転中!

エングリッシャーガルテン(Englischer Garten、英国庭園)は、その敷地3.7㎢。緑地が広がり、小川が流れ、カフェやビアガーデンも点在する、ちょうどニューヨークにおけるセントラルパークのような存在だ。

ドイツ人たちは、この公園内をサイクリングしたり、友人たちと音楽のセッションをしたり、あるいはただごろりと横になったりして、思い思いの時間を過ごしている。とくに天気のよい週末には、実に大勢の人が押し寄せるが、その人々をすべて飲み込んでもなお、ゆったりとした空気を失わない。
(ちなみに、ここには「全裸」になることが許される一角があり、うっかり踏み込むとぎょっとさせられることになるのだが、それについてはまたの機会に……)
 

ちっちゃな娘と徐行運転中!

これまでは夫や友人と連れ立ってくることの多かったこの場所に、話し相手のいない“1.5人”で訪れたからだろうか。あるとき、日本から修行にやって来たパン職人さんを市内観光に連れ出したときのことをふと思い出した。壮麗な市庁舎や歴史的価値のあるモニュメントに案内してもどこかぼんやりと反応の薄かった彼が、エングリッシャーガルテン内の小道でふと足を止めて緑地のほうを見やってこうつぶやいた。

「人生観が変わるって、こういうことなのかなあ」

彼の視線の先を追えば、そこにはただ芝生に寝転ぶ人々がいるだけである。それでも日本でひたすらに忙しい日々を送る彼にとっては、「公園でなにもしないでごろごろする」人たちがいるということが衝撃だったのだと思う。
 

ちっちゃな娘と徐行運転中!

彼はいま、日本でパン生地をこねながら、彼の人生観を変えたはずのこの公園のことを思い出すことはあるだろうか。近所の公園で一服でもしながら、ミュンヘンを懐かしんだりすることはあるだろうか。そうだったらいいなあ、と思う。

そんなことをなんとなく考えつつ、私は私の人生観どころか、暮らしまるごと変えたちっちゃな娘と一緒に、ゆっくりゆっくり公園を歩いていく。いつしかこのスピードを楽しみながら。
 

 
 

Posted by 溝口 シュテルツ 真帆

溝口 シュテルツ 真帆

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Maho Mizoguchi Stelz
編集者、エッセイスト。2014年よりミュンヘン在住。自著に『ドイツ夫は牛丼屋の夢を見る』(講談社)。アンソロジー『うっとり、チョコレート』(河出書房新社)が好評発売中。巡礼路を歩く旅がライフワークで、『Huffington Post』『YOUNG GERMANY』にサンティアゴ巡礼記連載中。日独間の翻訳出版エージェント業にも携わる。