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音楽家 三宅 純の時間旅行 Posted on 2017/08/20 辻 仁成 作家 パリ

三宅 純の音楽には旅人の心に刻まれた記憶の風景が刻まれている。
かつて一度も訪れたことのない幻の場所の記憶下に眠る映像が遺伝子の歴史を通して再構成されていくような、なんとも非現実的な響きなのに、驚くほど映像的な音楽が鼓膜を擽ってくる。なんとも奇妙な鼓動。なんとも誘惑的な旋律。なんとも得体のしれない創造性に富んだ摩訶不思議な音楽なのである。
いや、音楽なのに画布に描かれた油絵のような、思わず瞠目してしまうサウンド。この人が同じパリの住人であることは前より知っていたが、どのような人物か知ってみたいという強い好奇心に駆られた。マドレーヌ寺院にほど近い歴史的ホテルの一隅に現れた三宅 純はまさに時間旅行の途中でふらりと立ち寄ったような風貌であった。

ザ・インタビュー、音楽家 三宅 純の心の鍵盤に触れてみます。
 

音楽家  三宅 純の時間旅行

 
 15年くらい前にパリのヌーボーカジノで行われたあなたのコンサートに行かせてもらったんですよ。あの日は不思議な夜でした。なぜ、そこに自分がいるのかも分からなくて、ぼんやりと2階席から舞台を見下ろしていた。シュールで突き刺さるような現代的な旋律が当時の私を揺さぶっていました。あれはまだパリでご活躍する前ですよね。

三宅 純さん(以下、敬称略) はい、まだ日本に住んでいて、ベルリン・ジャズフェスティバルに参加した後だったと思います。

 当時はどちらかというと、今の音楽とも少し違って、70年代のマイルスを思わせるような音楽だったような…。

三宅 そうですね、おっしゃる通り70年代のエレクトリック・マイルス的なグルーブを母体に西欧、東欧、東洋の要素を分数構造にしたようなサウンドを狙っていました。

 三宅さんはもともとトランペット奏者ですものね。今はトランペット奏者というよりコンポーザーというか、そちらの方の印象が強いですけれど。

三宅 そうですね、もうかれこれ30年くらい軸足は作曲活動にあります。

 トランペット奏者の日野皓正さんとの出会いが音楽のきっかけだった、と人伝てに訊いたことがあります。

三宅 うちは父親が化学者で、全く音楽を… というか、音そのものを受け付けない人だったんです。当然僕が音楽家を目指すことに大反対でしたから、一度信頼できる人に自分の演奏を聴いてもらって、駄目だったら諦めようと意を決し、新宿にあったジャズクラブの日野さんの楽屋を訪ねました。高校2年生の時でした。
事情を説明したら、いきなりその場でトランペットを吹いてみなさいということになったのですが、心の準備もできてなくて、もうどうしようもないような演奏しかできなかった。すると日野さんが「明日学校サボれる?」と聞かれたので頷くと、「じゃあ、東京駅で待ってるから、うちに来なよ」と言われたんです。当時彼は沼津に住んでらしたんですね。そんな機会は2度とないだろうと思い、翌朝嬉々として東京駅に向かいました。日野さんは切符を買って待っていてくださって、そんなことまで? もしゲイだったらどうしようなんてバカな考えが頭をよぎりましたが、いきなり聴音のテストが始まったので、それどころじゃなくなりました。新幹線って乗り込むとすぐに車内アナウンスがありますよね? ポロポロポロンって音楽が鳴って、するとすかさず「今鳴ったのは何の音? ふーん聴こえてるね。じゃ次の音は?」という感じで質問されるんです。次に「じゃあ、その音が5度だとすると、ハーモニー的にはどこに解決するのが好き?」みたいなことを聞かれて理論が分からないと言うと、「あ、知らないんだ」とサーッと引く感じ。怖いなぁと思いましたね。和声の基礎を習ったりしてるうちに日野さんのお宅に着きました。玄関からお子さんが4〜5人出てきてなんだかひと安心。で、すぐに海に連れて行かれたんです。昔の東映映画でもあるまいしと思いながら、海に向かって2人でトランペットを吹いたんですが… 海というのは果てしなく音を拡散しちゃうじゃないですか? でもそこで聞いた日野さんの音はふくよかで、それに引きかえ自分の音の貧弱さたるや衝撃でした。この音色の差を思い知らせるために連れて来られたんだな、と思いました。それから、いくつか辛口のアドバイスを頂き、それがこの道は諦めなさいという遠回しな通告なのだと理解しました。すごすごと帰る準備を始めたら「遅いから今日は泊まって行けば?」と言われてお言葉に甘えることに。その日、母親には「もし帰ってこなかったらこの番号に電話を」という置き手紙をしていたのですが、案の定心配して電話をかけてきました。日野さんが電話口に出られ、突如「お宅の息子さんはアメリカに行くことが決まりました」と宣言されたんですよ。僕は横で「聞いてねーし!」という展開でした。

 海でトラペットを2人で吹く。いい話ですね。でも、何者か分からなかった日野さんを最初は恐れていた(笑)。そのこと、日野さんに話されたことあるんですか?

三宅 ありますよ。僕のデビューアルバムのライナーのために対談が組まれたのですが、その時に言及しても「え、ほんと? そうだっけ?」という感じでした。結局日野さんが父を説得してくださって、1年だけという条件で留学させてもらったのですが、そのまま5年間帰りませんでした。アメリカにいる間は公私にわたって日野さんのお世話になり、表現者としての生き方を彼から学んだと思っています。

 僕も高校の頃日野さんが大好きで、レコードを何枚も持ってました。日野皓正、すごかったですよね。

三宅 音楽性も存在感もね、ヒップでスタイリッシュ、かつ求道的だった。当時、彼はニューヨーク移住を決めたばっかりで、今思えば、ただ道連れが欲しかっただけかなとも思いますが(笑)。
 

音楽家  三宅 純の時間旅行

 
 なるほど。その道連れ事件のおかげで、音楽家 三宅 純の今があるんだから、人生とは誠に面白い。バークリーに通ったのに、トランペッターじゃなく、コンポーザーになったのはどうして? 

三宅 バークリーという学校は演奏家も作曲家もサウンドエンジニアも輩出していますが、僕は在学中まっしぐらにトランペッターを目指していました。ボストンとニューヨークを行き来しながら、学業と並行して演奏活動をしていたんですけど、81年にたまたま応募したマサチューセッツ州の作曲コンクールのジャズ部門で優勝したんです。そこで日本に帰れるくらい賞金が出て、5年ぶりに帰国しようと思いたちました。その頃日本はジャズ、フュージョンブームで、高校生の頃一緒にやっていた本田俊之や清水靖晃がスターになっていたので、日本の方が演奏の機会が多そうだなと思ったんです。帰国準備中に、長期隠遁生活をしていたマイルス・デイヴィスが、「空白の5年間」という映画にもなりましたが、ニューヨークのリンカーンセンターで復帰コンサートすることを知って、それを聴いてから帰国しようと決めました。マイルス・デイヴィスはピカソ的な天才で、常に新しいスタイルの提示をしてきたイノベーターなんですね。だからどんなに変貌を遂げた最先端の音楽が演奏されるのか、もうわくわくして聴きに行ったんですけど、その日は何ひとつ新しいことが聞こえてこなかった。彼ほどの天才をもってしても新しいビジョンが提示できなかったのを目の当たりにして、ジャズが死んでしまったことを痛感しました。僕はジャズの「様式」が好きだったのではなくて、日進月歩で予測不能のイノベーションが繰り広げられ、進化の過程が目の当たりにできる、そのスリルが好きだったんです。クラシックもロックも同じだけど、創造が飽和し様式となって終わってしまった。だから、そこで演奏家としての夢を持てなくなった。

 なんとなく、分かります。ジャズはもう駄目という感覚。ある種の幻想が打ち破られる時に人は覚醒をするんですね。

三宅 でも、悲しいことに当時の自分としては演奏しか技能がなかったわけです。どう舵を切ったら良いか瞬間的には見切れなくて、止むを得ずジャズの仕事をしていた頃、ふとパルコのCMに目と耳を奪われました。石岡瑛子さんがまだニューヨークに移住される前、まだバリバリ広告界で活躍されていた頃で、アートフィルムだと思って見ていたものが彼女が演出したパルコのCMだった。その天衣無縫さに、これこそジャズの魂だなと思いました。後年石岡瑛子さんがマイルスのジャケットデザインを手がけられているのも因縁めいて感じます。とは言え、どうやったらCMの世界に入っていけるのか見当もつかなかったのですが、しばらくして自分のデビューアルバムが、TDKのアンディ・ウォーホルが出るCMに使われて、広告業界と繋がりました。それはとてもラッキーだったかもしれない。もっと言えば、マイルス・デイヴィスにジャズが死ぬ瞬間を見せてもらったことが一番のラッキーかもしれないですけどね…。本当に自分にとって大きな衝撃でしたし、区切りになりましたから。

 すごいですね。僕なんか、いまだに楽譜も読めない(笑)。いつも仲間のアレンジャーに丸投げです。

三宅 えっと、今の話と楽譜は関係ないと思うけど、僕もバークリー時代はほとんど楽譜が読めなかった。読めなきゃいけないんだろうなとは思っても、即興演奏には関係ないと思っていたから、学校でも和声の勉強はしたけど、作曲とか対位法とかは最低限の必須コース以外ボイコットしちゃってるんですよ(笑)。あさはかにも作曲なんてゆっくりやった即興演奏でしょ? っていう尊大な態度でした。日本に戻って作曲の依頼を受けてから、それではまずいと思って、付け焼き刃で理論書とか楽典とか読んで、知ってるような顔をして、翌日までに依頼された曲を書いていくというスリル満点の日々。

 正直、音楽家でない方々に理解してもらうのは難しいことですが、楽譜が書けなくても、頭の中に曲やアレンジが出来ていれば、楽譜は写譜屋さんが書けば済むこと。自分が書けなくても成り立つことは成り立ちますよね。僕はずっとそうやってました。むしろ、ロックだったら成り立つかな。僕の周りで楽譜書けるミュージシャンにあんまり会ったことないです。

三宅 実際ジャズ系でも楽譜が読めない人、書けない人はいっぱいいますけど、ポイントは楽譜が無くても、それぞれの頭の中で聞こえてる音が双方向に伝わるか、ということなんですね、でもストラヴィンスキーみたいな作曲や演奏をしたいとすると、譜面が読み書きできないとまったくコミュニケーションが成り立たないわけです。話は変わるけど音楽の世界は建築とか料理とかに似ている気がします。

 料理といえば、実は、僕と三宅さんには共通項がありますよね。娘さんがまだ幼かったころに三宅さんも離婚されていて、当時8歳だった娘さんをシングルで育てあげられた。しかも、ずっとお弁当を作っていたと聞きました。親しみがわきます(笑)。どんなお弁当を作っていたんですか?

三宅 まずは娘本人にインタビューをするところから始めました。何が一番食べたいか? 冷めても美味しいと思ったものは何か? 栄養バランスとか添加物とかも急に気になり始めて、自分も昼は外食をやめて毎日同じものを食べることにしたんです。きっと一番大事なのは、8歳の子が素直に「もう1回食べたい」と思うものを提供することですよね。おばあちゃんが作ったお弁当のように茶色いお弁当じゃなく、彩りにも気を遣って。

 うちは、最近息子に「もう作らないで」って言われたんですよ。今、息子はトースト焼いてマーガリンつけて、それを嫌がらせのように食べて学校に行くようになりました。これがすごいストレスで(笑)。

三宅 マーガリン(笑)。そうですね、幕の内的なものからどう離れるか…。娘は洋食系が好きだったから、冷めても美味しいように作ったドライカレーとラタトィユとかね。フランスに来てからも学生の間はずっと作ってたから、15年近く作り続けたことになります。
 

音楽家  三宅 純の時間旅行

 
 冷めても美味しいドライカレー、これが分かる人はあまりいません(笑)。僕はよく分かります。働きながらの子育て、買い物ひとつとっても、大変ですよね?

三宅 その頃、まだCMもたくさんやっていましたからとにかく時間がなくて、ものすごく綿密な買い物リストを作らないと立ち行かなかった。野菜はここ、魚はあそこで買って、何分かかるからルートはこう行って…というように、旅程表みたいなものを作って、そこで買い漏らしたらもうアウトっていう状況でした(笑)。1日に何度も買い物には行けないから。

 大先輩ですね! 料理は好きなんですか?

三宅 はい、時間があれば楽しいですよね。結果的に娘がものすごく食べることが好きな子に育ったので、それは嬉しく思ってます。

 家事や育児をやりながら仕事を両立させるコツというのはなんでしょう?

三宅 うーん、僕は全然両立のエキスパートとは言えませんけど… 強いて言えば義務に感じずにそれぞれの時間を楽しむこと、あとは時間を効率良く配分することかなぁ。当時は育児と仕事だけで時間はいっぱいいっぱいだったはずなのに、寝かしつけた後けっこう夜遊びにも出かけたりしてました。クラブ系の連中とも仲良かったから。今にして思えば、よく体がもったなと。

 ところで、三宅さんはどうしてパリに来られたんですか?

三宅 パリに来る10年くらい前に、まず日本を脱出することを決意したんです。長いこと広告に軸足を置き過ぎた、そろそろアーティスト活動に戻りたいと感じていましたし、情報過多の世界から距離も取りたかった。日本で日本語の情報を浴びている限り、影響を受けないのは難しい。しかしその中の何パーセントが本当に自分にとって必要なんだろう? そういう思いが自分の中で膨らんでいくのと同時に、自分がコラボレーションしたいと思うアーティストを日本で待ち受けているとすぐに一生が終わってしまう、そんな地理的なハンディも気になって「ならば、場所を移そう」と思ったんです。最初はニューヨークを視野に入れていました。昔住んでいたし、最高峰の音楽家達がいるし。でもちょうどその頃にシングルファザーになってしまったんですね。8歳だった娘に、親の離婚の直後、日本を離れるのを強要するのは酷だと思って、高校を出るまで待つことにした。待ってる間にアメリカがブッシュ政権になり、911が起きた。どんどん移住したい場所がニューヨークじゃなくなってきたんですよ。だとしたら、島国ではなくて、地続きで国境がたくさん接している国の方がいいかなと思い、フランスだったらワイン、チーズ、パンも美味しいし(笑)。それで、一切フランス語の勉強もせず、いきなりパリで暮らすことを決めました。

 地続きっていうと、まさに、三宅さんの音楽は世界中の音楽を、いや、音楽というのかイメージを、三宅さんのフィルターを通して音像化されている。一種のアートです。

三宅 そう理解していただけたらとても嬉しいです。あと、パリっていうのは世界のハブ都市的な、みんなが通過していく都市じゃないですか。そうするとコラボレーションも楽になる。そこのメリットが一番大きいですね。

 パリを選択されたのは正解でしたね。

三宅 パリがイタリアにあったらもっと良かったけど(笑)。
 

音楽家  三宅 純の時間旅行

 

Portrait photography by Takeshi Miyamoto

 

posted by 辻 仁成