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連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第8回  Posted on 2025/12/02 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第8回    

   アケミがものすごい力で俺の腕を掴むと、人々を押しのけ、出口へ向けて突き進んだ。抵抗しながら振り返ると、取り残されたアカリは俯き、俺を拒否し続けている。
   「しゅうさん、お願い、今は、ここから離れて。じゃないと、わたしも巻き込まれちゃう。みんなよ、みんな大変になる。だから、お願いだから、一度、出直しましょう」
   アケミを巻き込むわけにはいかなかった。俺はエアタグをポケットに仕舞い、くそ、と吐き捨ててから、外へと飛び出した。そして、歓楽街に集まる人々の中へと紛れ込んで走った。走った。弾丸のように走り抜けていった。
   エアタグを受け取って貰えないことが悲しかった。でも、仕方がない。一度硬く閉ざしてしまったアカリの心を開くのは容易なことではなかった。でも、アカリはこの街にいる。こうやって会えたのだから、チャンスはまだある。俺は背後を振り返ってから、走る速度を落とし、人々に紛れ込みながら、まもなく歩きはじめた。くそ野郎、と吐き捨ててみる。でも、その勇ましい響きも虚しく泡にまみれた世界の渦の中へと飲み込まれ消えてしまった。
   路地のそこかしこでネオン看板が瞬きはじめている。遠く、雑居ビル群の狭間に懐かしいコーラの赤いネオンが垣間見えた。しばらく、赤く波打つコーラのチューブライトを見つけながら、出会った頃の二人のことを思い出してみた。そこに俺たちはいた。あの日々の俺たちは、真剣に悩んだり考えたりすることのない、くだらない時間を持て余し、日々の泡のごとき存在であった。でも、月日が流れ、俺たちは幾ばくか悩み、考えるようになった。そして、人生というものと向き合うようになった。随分と遠回りをしたが、やっと、生きることの切実さと向き合えた。俺は以前よりも増して、働くことに意味を見出していた。子供を育てるという責任感も芽生えていたし、俺自身も、また、生きる意味を見つけなければと思うようになっていた。簡単ではなかった。現実と向き合えば向き合うほど、過去が出しゃばり行く手を阻む。同時に、未来が重くのしかかってきた。それでも、俺は、少なくとも俺は、弾け飛ぶ泡であってはいけない、と考えるに至った。この掴みかけた幸福を取り戻すためにも、俺はアカリを家に連れ帰らないとならないのだ。
    でも、どうやって・・・。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第8回 

© hitonari tsuji



   気がつくと俺は「黒点」の前に立っていた。かつて俺が店長をやっていたラーメン屋、ニシキたちに燃やされた野本店主のラーメン店だった。通りの反対側から、俺はしばらく眺めていた。新しい店長が、かつて俺が立っていたポジションにいる。行列が続き、満席であった。野本がいるかどうか、分からなかったが、食べてみたい、と思った。ニット帽をかぶり、伊達メガネをし、マスクで顔のほとんどを隠した俺は、黒点に並ぶ行列の最後尾に立った。
   一番人気の「あさり塩麹ラーメン」の券を購入し、席に着いた。新しい店長が、あさり塩麹頂きました、と声を張り上げた。その手順は、俺がかつてやっていたものと全く一緒。茹で上がった麺を丸めて器の中央に置き、野本秘伝の塩麹ペーストを中心に載せ、フライパンでニンニク油と一緒に高火力で炒めた東京湾のアサリをそこにぶっかけ、最後に豚と魚介で丁寧にとったスープを回し掛けした。刻んだゴマの葉を散らしたら完成だった。新しい店長が、
   「はい、お待たせー」
   と言い、俺の前に器を置いた。湯気が立ちのぼる、見事な「あさり塩麹ラーメン」。俺はマスクを顎先までおろし、しばらくその佇まいを眺めてから、まず、スープをすすってみた。あさり、塩麹、胡麻の葉の風味、ニンニクの香り、豚と魚介で長時間出したスープの丁寧な味わいが、口腔に広がった。野本店主自慢の塩麹のスープが五臓六腑に染みこんだ。不覚にも、涙が零れてしまう。こんなにすごいラーメンを俺は作っていたのか、と驚かされた。麺は自家製のちぢれ麺で、地下の製麺室で作られている。箸でラーメンを掴み、音をたてて一気にすする。美味い。アカリが大好きなラーメンだった。目元が熱くなる。俺は鼻をすすりながら、必死でラーメンをすすり続けた。そこには生きることの意味までもが詰まっていた。青春の味だった。これに負けないラーメンを地元で作ることが出来るだろうか・・・。思えば、この味を生み出したのは野本さんだった。あの人の人生の結晶がこのスープと麺の中に練り込まれている。俺は完食し、器をカウンターに戻し、ご馳走様を告げると、マスクをして、店を出た。もう、あの厨房に立つことが出来ない。『早く出て行って』と言ったアカリの声が蘇る。俺は、外に出ると、メガネを外し、掌で涙を拭った。すると、
   「しゅう」
   と声がした。驚き、急いで振り返ると、髭面の野本店主が立っていた。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第8回 

© hitonari tsuji



   「やっぱり、お前か」
   俺は逃げ出せなかった。あの時、この店が燃えていた時、店の前で右往左往していた野本店主を認めながら、置き去りにしたのだ。俺のせいで、大切な店が燃えされたというのに・・・、あんなに世話になったというのに・・・、恩をあだで返してしまった。俺は思わず、地面にしゃがみこみこんで、土下座をした。頭を地面に押し付けた。すいませんでした、と心の底からの叫び声があがる。申し訳ありませんでした。すると、野本店主がしゃがんで、俺の腕を掴み、
   「しゅう、ここは人目につく。ちょっとこっちへ来い」
   と俺を引っ張った。店の裏口から、地下の製麺室へと連れていかれた。奥にある社長室へ行くと、デスクの前の椅子に座らされた。野本は俺をしげしげと見つめ、こう言った。
   「お前、生きていたのか」
   優しい一言であった。俺の目に涙が再び滲みはじめる。
   「すいませんでした」
   「大丈夫だ。心配するな。この通り、店は元通り戻った。それよりも、こうやってまた訪ねて来てくれて、嬉しいよ」
   心の中に、これまでのことが渦まいた。言葉がまとまらない・・・。でも、野本は、気にするな、と落ち着いた声音で宥めた。
   「こうやって、また会えた。それでいい。で、今は、どうしているんだ?」
   俺は携帯を取り出した。待ち受け画面は俺とアカリとリンゴの三人の写真だった。野本はそれを覗き込み、みるみる笑顔になると、あああ、そうか、そうか、そうか、と大きな声を張り上げるのだった。

次号につづく。

  
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辻仁成、展覧会情報

2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。
2026年、11月に、3週間程度、フランスのリヨン市で個展、予定。詳細は後程。
2026年、8月、東京での個展を計画しています。詳細は待ってください。

新作、絵画がアップされました。

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。