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滞仏日記「育児を義務だと思わないで、育児はフレンチトーストの味」 Posted on 2021/04/09 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、二コラのお母さんから、午後、メッセージが入った。
「何か、鬱がひどくて、つい二コラにあたってしまうんです、ムッシュ、どうしたらいいでしょう?」
二コラの両親は離婚が成立し、フランスの法律に則って、子供たちはお父さんとお母さんのあいだを行き来しているのだけど、お父さんには新しい彼女がすでにいるみたいで、どちらかというと二コラとマノンはお母さんの家にいることの方が多い。
でも、お母さんはテレワークとはいえ、働いているので、ストレスが増える。
仕事と育児と家事をやらないとならない、その上、コロナ。
二コラのお母さんが結構厳しい精神状態にあるのは想像に容易い。
昨日、二コラが帰りがけに、ママが怖い、とぼくに打ち明けた。
「ムッシュ。ママがめっちゃ、怖いんだよ。だから家では、ぴりぴり、逃げ回ってるの」
テレワーク、子供の面倒を見ないとならない、そして、ロックダウン・・・。
鬱になるのは当然だろう。

滞仏日記「育児を義務だと思わないで、育児はフレンチトーストの味」



これはもはや、世界的な問題になっている。
日本のママ友からも先ほど、同じようなメールが入った。
「日本も急に感染者が増えたんですよ、辻さん。だから、ちょっと怖くて外食は控えて、家でじっとしているんだけど、つい、主人や子供にあたってしまって・・・」
SOSが急に増えたのは、やはり長引くコロナ禍でみんな心が疲弊しきっているのであろう。変異株は今まで以上に不気味だし・・・。
「でも、君が壊れたら元も子もない。子供は意外と大丈夫だから、今は休みなさい」
ぼくはそういうメッセージをこの二人に送っておいた。
子育てや育児を義務だと思わない方がいい。
ぼくもシングルファザーになった当初、この子を立派に育てあげてみせる、と長く気負った時期があった。
でも、根詰めて子育てをするとまず心も身体も持たない。
ぼくは何度も何度も挫折を繰り返すことになる。
そういう時、意外なことだけど、ぼくを救ったのは、当の子供であった。



「パパ、頭痛いなら寝ていて。ぼくは大丈夫だからね」
頭が痛いわけじゃないけど、家事と育児をすべて放棄して、ぼくはベッドでふて寝をしていた。
身体が動かなかった。心が閉じたら、そうなる。
あっさり息子をほったらかしてしまった。
日曜日だったと思うけど、何にもしないで寝ていた。
そしたら、夢の中に、10歳の息子が現れた。部屋でレゴか何かで遊んでいる。
ぼくはそれを天井から見下ろしていた。
斜め上からの映像だった。
ぼくはじっと見ていた。
夢なのだろうけど、今も覚えている。リアルな夢だった。
カーテンの隙間から午後の光りが差し込んでいた。
空っぽのコップが置いてあった。
起きなきゃ、とぼくは夢の中でぼくに言った。何か作らなきゃ。
そしたら、寝室のドアがあいて、誰かが入ってきた。
「パパ、これ食べてね」

滞仏日記「育児を義務だと思わないで、育児はフレンチトーストの味」



振り返ると、小さな息子ははちみつをかけた焼いた食パンを持ってきて、ベッドの脇のサイドテーブルに置いたのだ。フレンチトーストのつもりのようである。
「ありがとう。美味しそうだ。作ってくれたのか」
「うん。変な形だけど、美味しいよ。きっと」
「食べたの?」
「まだ」
不思議なことに、ぼくは気力を取り戻すことが出来ていた。
「じゃあ、一緒に作ろう。フレンチトースト」
起き上がり、息子の背中を押して、二人で、キッチンへと向かった。
「うん、一緒に作る」
サイドテーブルの焼け焦げた食パンに、涙が出た。



あれは息子が小学生の頃のことである。
息子はキッチンの椅子に座って、ガスコンロと向き合うぼくをじっと見ていた。
でも、ぼくは時々、彼を振り返り、笑顔を向けた。
クレーマー、クレーマーという映画があった。
ご存じのように、その中でダスティ・ホフマン演じるシングルファザーのお父さんが作ったのが、「フレンチトースト」である。
実は、近所にジェレミーが経営するカフェがあった。そこの名物がフレンチトーストだった。ジェレミーはダスティ・ホフマンにそっくりだった。
息子はジェレミーのフレンチトーストが大好物だった。まだ3人家族だった頃、彼はそこでフレンチトーストと出会った。
ジェレミーのフレンチトーストの特徴は、上に、アイスクリームとメイプル・シロップがかかっていることであった。
ぼくが作り終えると、キッチンの小さなテーブルで二人で向き合って、それを食べた。あ、ぼくはもちろん、息子が作ったのを、食べた。



子育ては長距離走なんだ。今日や明日、結果が出るものじゃない。たまには寝込んでもいいんだ。この子は大丈夫だ、とぼくはぼくに言い聞かせていた。
「いつか、フレンチトーストの作り方教えてね」
息子が食べ終わると言った。

その後、実際に、彼はフレンチトーストを作るようになり、辻家の定番になっていく。
ジェレミーは店を知り合いに譲り、そこを去った。
でも、ジェレミーのところのフレンチトーストは辻父子の絆をつなぐ大事な一皿になっていった。
最近は一緒に作ってないけど、・・・
その写真をHDの中から探そうとしたけど、見つけられなかった。
ただ、インスタを遡っていったら、2017年に、お、あった。
息子と一緒に作った写真が出てきた。
いつものお皿だから、笑ってしまった。
ぼくらは何度もクレーマー・クレーマーごっこを続けてきたのである。
2014年も、2017年も、そして、2021年も・・・。
もしも、子育てに煮詰まったら、ぜひ、お子さんとフレンチ・トーストを作って食べていただきたい。
子供がどんなに愛しい存在か、思い出すことが出来れば、子育ては苦しみではなくなるのだから・・・。

滞仏日記「育児を義務だと思わないで、育児はフレンチトーストの味」

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