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滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」 Posted on 2021/04/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、がさごそと音がした。時計を見ると6時半だった。
でも、眠くてうとうとしていたら、ドアの閉まる音がしたので慌てて起きた。息子が出かけたのである。朝の7時半だった。
デートに違いないけど、一応、ランチはいらないのね、とメッセージを送った。うん、と返事が戻ってきた。やれやれ。
戻ってくるのは外出禁止になる直前、夜の19時だろう。まったく、10時間以上も何を話すことがあるというのだ、と親は思うのだけど、そこは追求しちゃいけない。
土曜日も一日出かけ、月曜日も朝から出かけ、・・・

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



午前中、走った。ライブはコロナで中止になったけど、ぼくはコロナなんかに負けたくない。
エッフェル塔の下まで走り、セーヌ川の河畔で発声練習をやった。橋の下がちょうどいい感じにエコーがかかるので、発声練習にむいているのだ。
昔、映画監督のK君が、ぼくの発声練習を撮影したいと言っていたな。あれから気が付けば、15年も経っている。
ホームレスの人が、やあ、マエストロ、と声をかけてきた。ごめんね、20分だけ声だしさせてね、と許可を取り、ぼくはセーヌの流れに向かって声を出す。
パリの建物は壁が薄いので、怒鳴り込まれた経験が何度もある。だから、発声練習はだいたい川沿いか車の中か公園でやる。
「あんた、歌手かね。いっつもここで歌ってる」

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



発声練習といっても、我流の適当な発声で、先生などについて習ったことはない。
「まあね」
「でも、今はライブとか出来ないよね」
「ああ、一昨日、中止が決まったの」
「それでも歌うんだね」
「理屈はわからないけど、無性に歌いたいんだよ。歌えって言われたら、いつでもすぐに歌える状態にしておきたい」
「なんで? こんな世界なのに?でも、歌手なら、お客さんに観てもらいたいだろ」
「そりゃあ、もちろん」
ホームレスのおじさん、ぼくの横に着て腰を下ろしてしまった。なんか、やりにくい。やーめた。ぼくが立ち去ろうとしていると、声がかかった。

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



「コロナになって、見てみろよ。セーヌ川も様変わりした。船が一隻も動いてない」
ほんとうだ。ペニッシュ(屋形船)は全部、川岸に係留されている。
ここからすぐのところにバトームッシュの船着き場がある。
そこから15分おきくらいに遊覧船が毎朝、昼間も、夜も、一日中、出航していた。
でも、今は観光客がゼロだ。たまに貨物船が通るくらい。
「寂しいね。観光客のせた船がここを行き来するの、活気があってよかった」
あっちの岸に接岸しているペニッシュを見つめた。
あの上でライブやったら、気持ちいいだろうなぁ、と思った。
でも、それは結構、難易度が高い。
そんなこと、出来るだろうか。
動いてない船をどうやって動かせばいいんだろう? しかも、ロックダウンなのに。
だいたい、一隻借りたら、いくらするんだ? 
想像もつかない。やっぱり、そんなの無理な話しだ。

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



ぼくはセーヌ川沿いの「QUAI」と呼ばれる道を走って家に戻った。
途中の公園で若者たちが屯していた。すれ違うのは中学生、高校生、の子供たちばかり。
まさに息子の世代の子たちだった。学校が閉鎖されている。子供たちは外で集まって、気晴らしをしているのだ。
この中に息子もいるのかもしれない。彼女と二人で・・・。

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



ぼくは何をムキになっているのだろう、と思った。ZOOMで会議とか取材とかあったけど、ちっとも面白くない、ふてくされている自分がいる。
ぼくがこんなに苦しいのに、世界が勝手に物事を進めていくのはなぜだろう、と思った。
たしかに、他人は他人で、ぼくじゃないので、誰と話しをしても、みんな自分の基準で話すものだから、かみ合うわけがない。
ぼくは、61歳の表現者だけど、何か文句あるのか、と思った。
誰かに理解されたいとも思わない。みんな苦しいんだから、一緒なのだ、と思う。

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



ぼくの身体は、皮肉なことに今までで一番調子がいいし、エネルギッシュだ。
オーチャードホールに向けて、ずっと筋トレや発声練習を続けてきたからだ。まだ白髪もほぼないし、腹も出てない。くそ、最高に出来上がってるのに。
でも、どんなに練習をしても、発表できる場所がないのだ。舞台がない・・・
コロナのせいで、ぜんぶ、翼をもがれてしまった。音楽も映画も中止だ。
もう、おとなしくしてろってか? 

滞仏日記「不屈で行け、と昔のぼくが今のぼくに言った」



予想通り、18時半に息子が戻ってきた。ぼくがふてくされていると、
「どうしたの?」
と言った。
「べつに」
「なんか、怒ってるの?」
「思い通りにならない。いらいらするんだよ。なのに、みんな勝手で予定調和で腹が立つんだよ」
息子は黙ってぼくを見ている。
「ちっとも自分じゃない。本当のパパを見せたい。なのに、誰もわかってくれない。気を使いすぎてくたくたになる」
息子が、くすっと笑った。
「パパ、昔よく言ってたじゃない。ふくつ?だっけ」
ああ、言ってた。不屈だ。
「ぼくにパパが昔教えてくれた言葉を返すよ。落ち込んでもいい。倒れてもいい。挫けてもいい。でも、すぐに起き上がれ。すぐにだ。3秒で立ち上がれ、それをふくつと言うんだって、ぼくに言ってた。言ってたよね? じゃあ、簡単じゃない、立ち上がれば?」
息子が笑い出した。なんだか、おかしくなった。くそ、ぼくも笑った。笑いが止まらなくなった。
 

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