JINSEI STORIES

退屈日記「上の階から毎日聞こえてくる叫び声、もうずっと」 Posted on 2021/05/27 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、上に住んでいるお子さん、下のお子さんがちょっとヒステリックな何かを持っていて、普段はおとなしいのだけど、突然、大声で叫びだしたり、コップや何かを壁に投げつけたりして、しょっちゅう大きな音が響いている。
高校教師をしているご両親、とくにお母さんのほうが、これにヒステリックな怒声で対抗し、ここに越してきてから、ほぼ、毎日、叫び声と泣き声を訊いて、ぼくも息子も過ごしてきた。
ほぼ、じゃなく、完全に毎日、かもしれない。夕方になると、必ず一度はヒステリックな叫び声がアパルトマンに轟く。
「パパ、これはDVじゃないの?」
「いや、違う。よく聞いていればわかるけど、下の子の癇癪が先にはじまり、あの子のお母さんがそれを怒鳴ってとめてるんだ」
「あんなに怒鳴る必要ある? 虐待にしか聞こえないけど」
「手がないのだろう。どんどん酷くなってるから、何かでとめないと永遠に続くので、怒鳴ってるんだと思う」
「心の病気なら、お医者に相談をするべきじゃない」
「そりゃあ、もうとっくにしているさ。あの二人は教師だし、ちゃんと分かってる。でも、どうしようもないことはある。そこにコロナだ、子供も親御さんもとっくに限界を超えているんだよ」
「たしかに」

退屈日記「上の階から毎日聞こえてくる叫び声、もうずっと」



こういう会話をしていたところ、昨日の夜、ぴんぽん、とドアの呼び鈴がなった。
夕食の時間だったので、こんな時間に誰だろうと思った。下のエントランスじゃなく、玄関ドアの前に誰かがいるのだ。ということは住人かもしれない・・・。
息子が立ち上がろうとしたけど、それを制し、ぼくが出た。
すると、上の階の、上のお姉ちゃんが立っていた。たぶん、中学生。
「どうしたの?」
「あの、いつも大騒ぎをしてごめんなさい」
「あ、いや、ぜんぜん、大丈夫だよ。気にしないで。おじさんも毎日、歌ってるだろ。うるさくないかい?」
「うるさくないです。パパもママも、私たちもムッシュの音楽好きだから」
「もうすぐコンサートだから、騒がしくしてこちらこそごめんなさい。だから、お互い様ということで問題ないですよ、とお母さんに伝えてね」
そう告げると、その子は小さく微笑みを残して上にあがっていった。
ぼくは食卓に戻り再び食事の続きをした。
すると、数分後、もう一度、ドアベルが鳴った。
出ると、今度は下の子であった。
「いつもうるさくしてごめんなさい」
お姉ちゃんと同じことを言った。たぶん、夕方、大騒ぎになっていたので、ご両親が謝りに行くよう、命じたのであろう。
そうすることで自分たちの問題を理解させる狙いがあるものと思われる。
追い込まれているな、と思ったので、
「大丈夫。ぜんぜん、平気だから、ってママにも言っといてね」
と下の子に伝えた。
外の世界ではおとなしいいい子なのだけど、・・・。どういう病なのか、わからないけど、ぼくらにできることは見守ることしかない。ご両親もコロナで学校がなかったり不規則な生活を強いられてきた。
そのうえ、お母さんのほうは喘息を患っている。コロナに絶対罹ることができない。罹ったら命にかかわるから、と前に笑いながら言っていた。
実はこのお母さん、高校の音楽の先生で、元はオペラの歌手だった。だから、彼女もしょっちゅう歌っている。咳き込むか、怒鳴るか、歌ってる。なかなか凄いキャラクターなのである。見た目も、ふくよかで、マモンっていう感じ!!



ぼくらが家族ぐるみで親しくなったのは音楽の話題であった。
ご主人のジェロームもギターを弾く。普段よく聞こえてくるのはアメリカンロック。そして奥さんのマリーはクラシックだ。
ぼくがよくギターを弾いているので、向こうから声をかけられ、音楽の話しで盛り上がってから、親しくなった。
音楽の話しをしている時、この人たちは本当に満面の笑みになる。
きっと音楽が救いなのであろう。
それはよくわかる。
コロナの時代に人類を癒すものの一つは間違いなく、音楽だ。

地球カレッジ



それにしても、ヒステリックな叫び声は壁が薄いので筒抜けなのである。
息子はちょっと勉強の邪魔だと思ってる節があるけれど、でも、あいつもしょっちゅう部屋で歌っているので、お互い様なのである。
ぼくはお母さんにSMSを送った、気にしないで、と・・・。
でも、返事はなし。お母さん、ここのところ、鬱っぽい。
最近、階段ですれ違っても俯き加減なのだ。長引くコロナの問題がこうやって、小さなところでぼくら人類を苦しめている。
ところで今朝、上のお母さんからSMSが届いた。
「ムッシュ。オンラインのライブをやると言ってましたよね。そろそろでしょ? 情報、貰えますか? チケットを買いたいの。いつもあなたのギターを聞いてるから」
この家族にチケットをプレゼントしようと思った。
そんなことで、彼らが少しでも気がまぎれるなら、ぼくも気がまぎれる。
ぼくの仕事場の壁には、この姉妹がぼくに描いてくれた日本のイラストがずっと飾ってある。
この家族がほんとうは幸せな素晴らしい家族であることをぼくは知っている。
コロナに負けないために、ぼくらは支えあって生きていくしかない。

退屈日記「上の階から毎日聞こえてくる叫び声、もうずっと」



自分流×帝京大学