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退屈日記「暴力をふるう酒乱の父親とその息子のララバイ」 Posted on 2021/08/12 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、いつも歩道に一人の青年が座っている。
ちょっと太っていて、いかめしい顔をしているけど、心優しい子だ。
ボンジュール、と声をかけると、サヴァ? と返事が戻って来る。
彼は食料品店の長男で、いつも1人で店番をしている。
彼は何歳なのだろう、学校には行ってないが、うちの子と同じくらいかもしれない。
小さい頃の同級生などがたまに遊びに来て、いつも店の前で数人が屯している。
大人しい子だけど、幼馴染みたちには好かれている。
店が狭いので、客がいない時はいつも通りの反対側の歩道に座って携帯を見ている。
客が来ると立ち上がって、中に入る。
ぼくが彼に声をかけるようになったのは、この子が頑張っているからだ。
奥さんがいるけど、今は、奥さんも、下の小さな子たちもいない。
この辺のことは、前の日記で書いたので、読んだことがある方もいるだろうけど、お父さんが酒乱で暴力をふるうのだ。
その間に入って、酒癖の悪いお父さんから、お母さんと下の子たちを守るのはいつも、この子の役目だった。
なんとなく、年が近いからか、つい、息子と比較してしまうけど、だからか、胸が痛む。



一昨日のことだ。
シャンゼリゼから戻って、夕飯を息子と食べていると、通りから大きな怒声が届いた。
陽が沈んで辺りが少し暗くなり始めた頃、ちょうど、街灯が点いた瞬間だった。
窓の隙間から下を覗くと、通りので、食料品店の店主が、自分の息子の襟首をつかんで、わけのわからないことを叫んでいる。
お父さんの方は時々、自分の国の言葉で怒鳴っている。
酒乱で、酒が入ると人がかわる。
数軒隣でバーを経営するモロッコ人のユセフが何度か仲介に入った。
前回、ここで書いたのは、奥さんと小さな子供たちを怒鳴り散らしていた時のことだったと思う。その時も、彼は錯乱し、店の果物とか野菜の棚を倒して大暴れをした。
でも、今日はそれどころじゃなかった。
無抵抗の息子を、右手で何度も殴ったのだ。
ぼくは驚き、動けなくなった。自分の息子の顔に、力いっぱいこぶしを放っていた。
警察を呼ぼうとしたが、通りかかった人か、見かねた近くのアパルトマンの人が出てきて、説得にあたった。
真夏なので、住人の多くはパリから離れていて、人が少ない・・・。



殴る瞬間は撮影できなかったが、警察に渡そうと思って、撮影をした。
これまでも、何回も撮影して、最悪の事態になる前に、警察に相談をしようと思っていたのだ。どうも、その時が来た、と思った。
三人で押し問答が続いていたが、するといきなり、息子が父親の手を振り切り、目の前にあったゴミの大きな箱をひっくり返し、その上で自分の店のドアを蹴とばし、走りだした。
いつも歩道に座っている子の、必死で走る後ろ姿が心に焼き付いた。
その姿があまりにも悲しく、ぼくはまた泣いてしまったのだ。
あまりに切ない姿だった。
ぼくは溜まらず、下におりた。しかし、そこにパトカーが到着したのである。
中から三人の警察官が出てきて、酒乱の主人を取り囲んだ。見上げると、反対側の建物から数人が顔をだしていた。
誰かが呼んだのに違いない。ここは警察に任せよう。
ぼくは家に戻り、夕食を食べている息子のところに行き、説明をした。息子は黙って聞いていたけど、それについてはコメントをしなかった。



食事が終わり、ぼくは食器を洗い、仕事部屋に戻った。まだ、外から声が聞こえていたので、覗くと、警官たちがパトカーに乗り込むところだった。
店の前に酒乱おやじが立っていた。警官たちは、ボンソワレ(良い夜を)と言い残して帰っていった。ボンソワレ? 逮捕しないのか、と思った。
親子喧嘩だと逮捕できないのかもしれない。
でも、ぼくは警察に写真は送ろうと思った。
これが続いていくと、あの子が可愛そうだし、もっと大変な出来事が起こる可能性があるからだ。
ぼくは、暗くなった通りを見つめて、やっぱり悲しくて涙を流した。
どこかで、夜を過ごしているあの青年のことを考えると胸が痛過ぎた。



昨日の午前中、パンを買いに家を出ると、その店が開店していた。何事もなかったのように、である。
そして、店主はいなかったが、その息子がいつもの歩道の縁石に座って携帯を見ていた。
びっくりした。ぼくはもうどこかに消えてしまった、と思っていたからだ。
前まで行き、ボンジュール、と声をかけた。すると青年はぼくを一瞥し笑顔で、サヴァ、といつものように言った。ぼくが動かないので、どうしたの? という顔をした。
「上から見ていたけど、警察に相談をしようか?」
と言ってみた。すると、無口な青年が立ち上がり、
「それはやめてほしい。大丈夫だから」
と懇願するように言った。ぼくは彼の立場を想像し、警察沙汰になったら、彼らはフランスで生きていけなくなるのかもしれない。いろいろと想像し、最終的に、自分の気持ちを飲み込むことにした。
「もし、それ以上、酷いことが起きたら、撮影した写真は全部保管してるから、言ってくれ」
と、言い残した。

退屈日記「暴力をふるう酒乱の父親とその息子のララバイ」



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