JINSEI STORIES

滞仏日記「とっても迷惑な隣人に田舎で絡まれたのだけど、それが不思議なことに」 Posted on 2021/09/21 辻 仁成 作家 パリ

地球カレッジ

某月某日、田舎の家は静かにぼくを待ち受けていた。
ここのところ受験生の息子につきっきりだったので、ちょっとご無沙汰の田舎、ドアをあけると、変わらぬいつもの光りがぼくを待ち受けていた。
前回、ここを出ていった時の、そのままの空気だった。
我が家に帰ってきた、という気持ちになる。思わず、笑みがこぼれた。
もうすぐ、ここを買うぞと決めてから一年になる。早いものだ。
人生がこのような速度でどんどん進んでいくのなら、ぼくの一生もあっという間に終わってしまいそうだ。
永遠に生きる人間はいないので、遅かれ早かれ、この世とお別れしないとならない。
オペラのうどん屋「国虎」の主人、野本の口癖は「もうすぐずっと寝るから、今は寝なくてもいい」である。
そう言って、朝まで飲んでいるのだ。
一生には終わりがある、人間は誰もがそこへ向かっている。
その瞬きのようなこの瞬間、同じ星に生きているのだから、仲良くしたいものだけど、そうもいかないのが、また、人間なのである。

滞仏日記「とっても迷惑な隣人に田舎で絡まれたのだけど、それが不思議なことに」



だから、ぼくは面倒くさい人間関係に疲れるのが嫌で、何もかもから離れるために、人と揉めたくないし、きっと、こうやって地方で暮らし始めたのであろう。
息子が大学に入ったら、完全にこっちに軸足を置く予定・・・。
自宅(家具も電化製品もそろい、すっかり、そう呼んで相応しい感じになってきた)に戻ってきたぼくはまず最初に、ベッドのカバーを外し、いつでもゴロンとできる状態に、ベッドメイキングする。
それから、全部の窓(9個の窓)を開けっぱなしにして、お風呂に入る。高台の最上階なので、遮るものはほぼない。
山の上の方に数軒あるけれど、望遠鏡でもなければ見られない。素っ裸になって、光りがさす、風呂に浸かり、鼻歌を歌う。
バスツアーライブが近いので、気分は、オーシャンゼリゼェ~。
風呂から上がると、コーヒーメーカーを洗って、エスプレッソを淹れて飲む。
で、身体が温まったら、パリから持ち込んだ相棒のギターを抱えて本格的に歌う。
下の階の、カイザー髭とハウルの魔女ご夫妻はいない。
窓のボレーがおろされているので、わかる。
なので、ぼくは大きな声で、憚ることなく、歌った。
パリは壁が薄いので大声を出せないが、ここは、小高い丘の上の古い建物の最上階だ。誰にも気兼ねをする必要がない。
大声で歌い続けていた。ぼくの歌声に合わせて、とととんつーつー、とリズムが入る。
いいね、いい感じだ、とととんつーつー。
素晴らしいリズム・・・。え??? 誰の合いの手?

滞仏日記「とっても迷惑な隣人に田舎で絡まれたのだけど、それが不思議なことに」



ぼくが演奏をやめると、とととんつーつー、も止んだ。音のする方へ行く。
お風呂場の排水管辺りからである。あ、モールス信号(符号)だ。ということは、この建物の半地下で暮らす、プルースト君ということか・・・。
そうか、彼はいるんだ。プルースト君は、一階の住人、フランケン&ベルナデット夫妻の長男で、社会と隔絶した(引きこもり)生活を送る、ある意味、世捨て人のような人物。
小説家、マルセル・プルーストに似ている。
青白い不健康な顔、黒いスーツと白いシャツをいつも着ている。
口ひげを生やし、ひげ剃りのせいで、顎の周辺が、うっすらと青いのだ。
ぼくは電話級無線技士の資格を持っているので、多少、知っている国際モールスで、HELLO、と配管を叩いてみた。すると、プルースト君から、
「HELLO」
と戻ってきた。やば・・・。こういう関係が嫌で田舎に越してきたというのに、頼むからほっといてくれよ~。
ぼくは風呂場のドアを閉めて、寝室に逃げ、仕方がないから、小さな声で歌った。
やれやれ。困った隣人である。

滞仏日記「とっても迷惑な隣人に田舎で絡まれたのだけど、それが不思議なことに」



午後、隣町のスーパーに滞在期間中の食材などを買い出しに行った。
NHKBSの撮影をしないとならないのに、機材を忘れてきたので、自撮り棒を買った。
半額だったので、思わず買ってしまったのだった。
これがすごい自撮り棒でスタビライザー機能までついている。でも、ちょっと高度な機材で、使い方がわからず、YouTubeを見ながら、ああだこうだ、苦労していると、ぴんぽーん、と玄関のベルが鳴った。
すぐに、プルースト君だと分かった。居留守を使うか、迷ったけど、ぴんぽーん、ぴんぽーん、と続けざまに、「いるのはわかってるのだ」みたいな感じで鳴り続いたので、たまらず、階段を下りて、ドアをあけた。
髭が真っ黒で濃いのに、肌が白く、無理して剃っているから、顔の下半分が青い、・・・プルースト君が笑顔で立っていた。
うわああああああ。出たー。

滞仏日記「とっても迷惑な隣人に田舎で絡まれたのだけど、それが不思議なことに」



「やあ、君の音楽、ぼくは好きだ」
「あ、ありがとう」
「うちで、お茶でもどうだい? ぼくが焼いたクッキーとブラック・ティでも」
「え? いや、ちょっと今は仕事中で・・・」
「ならば、夕方とか、どうだい?」
ぼくが避けているのが分からないのだろうか・・・、どうも、分からない感じである。困ったちゃんだ。
「この裏手にいい散歩コースがあるんだ」
「散歩、いきなりすかぁ?」
「でも、知っとくといいよ。気分が軽やかになる。16時に、下で待ってるよ」
「え? あ、いや。ちょっと・・・」
ドアが閉まった。
やれやれ・・・。



16時になると、配管が叩かれ、レッツゴー、とメッセージが届いた。
レッツゴーじゃないよ、と思って居留守を使ったけど、16時15分、気になり、窓からこっそりと下を見たら、玄関の前のエントランスにプルースト君がぽつんと立っていた。
「うわ、こりゃあ、面倒くさいなぁ」
途中まで一緒に行き、買い物があるから、と言って別れればいいか・・・。
ご両親もよくしてくださるし、無視はできない。
なんとなく、可愛そうな気がして、ぼくは散歩に付き合うことになった。←つきあったんかい!!!
ところが、歩いたけど、会話はない。その、あ、いや、口説かれたら、どうしよう~、と考えてしまい、足が震えてしまった・・・。ごめんなさい。
「君は、他人と関わるのが嫌で、引きこもって生きてきたんでしょ?」
とぼくは歩きながら、おそるおそる聞いてみた。
「ああ。でも、ぼくは人間が嫌いというわけじゃないんだ。とくに、ぼくは音楽をやっている人を尊敬している。音楽は人間が発明したものの中で、孤独についで、素晴らしい」
孤独についで素晴らしい、という響きがなんとなく、心に残った。
孤独を発明した人間はもっと素晴らしい、ということを言いたいのだろう。
10分くらい、ぼくらは歩きながら、そういう話しをした。
孤独な人間は自ら孤独を選んで生きているのだから、寂しい人だとか悲しい人間だとは思うのは間違いだ、好きだとか嫌いだとかそういう悪しき人間の思考さえもない、とプルースト君は力説していた。
そして、彼はぼくにぼくらの建物周辺の路地とか、山道とか、広場とか、古い家だとかを紹介してくれたのである。

一応、つづく。

滞仏日記「とっても迷惑な隣人に田舎で絡まれたのだけど、それが不思議なことに」



自分流×帝京大学
新世代賞作品募集