JINSEI STORIES

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」 Posted on 2021/10/06 辻 仁成 作家 パリ

地球カレッジ

某月某日、人生って、どうしてこう、毎日、いろんなことがやってくるのだろう?
ぼくは別に何もやってないのに、悲しくさせられたり、怒ったり、感動させられたり、絶望したり、きりがない。
昨日は不意に友人の訃報を聞かされ、どん底に落ち込んでいたら、今日、バスツアー&ライブに偶然参加した武豊さんのおっかけのZ氏からライブの写真が届いた。
映像とはやはり全く違うものなので、友人をなくし、悲しみの中にいる自分を励ますものとなった。
ぼくと同じ年のあいつが死んだこと、訊いた瞬間はぴんと来なくて、たぶん、心がブロックしていたのだろう、でも、数時間経って、窓から差し込む太陽の光りを見た途端、というか、DSの過去記事を探して、そこに映っているあいつの顔写真を見て、不意に涙があふれ出てしまった。

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」



音のない写真が、ぼくに伝えるものは、躍動的な映像がぼくに届けるものとは違っていた。
武豊さんのおっかけの、Z氏のことを数日前の日記書いたが、彼は、10月2日にパリに着き、3日、凱旋門賞の武豊さんを撮りに行き、翌4日、彼はぼくのところにやってきた。
そして、狭いバスで、場所がないから、揺れるバスの床に寝転がって2時間45分ほど、ぼくを撮影し、一風堂から差し入れされたお弁当をもってシャルル・ド・ゴール空港へと向かった。
2日に入り、4日に出た、男・・・。
もう、今は地元で自主隔離中とのことで、撮影した写真をホテルで選んでいるらしい。
そして、今朝、ぼくは20年来の友人、七種諭(saikusa satoshi)の訃報でおこされることになった。

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」



いまだに、ぼくは諭が死んだとは全く信じてない。
だから、酷い冗談を言ってるやつがいるものだ、とずっと怒っていた。
で、野本のところに電話をしたら、そうらしい、という。
ぼくがこのパリに移り住んで最初に転がり込んだアパルトマンの家主で、カメラマンで、滅多に会わないけど、友だちだった。
本当に、滅多に会わないけど、ぼくは彼をリスペクトしていたし、きっとあいつもぼくのことを友だちと思ってくれていたと思う。確認しあったことはない。
ただ、お互いはっきりとものを言う性格で、だから、ぶつかるかな、と最初は思ったけど、なんとなく似たような感性を持ってるって、わかってからは、凄く仲良くなった。
「辻っちは、フランスで生きていける。差別されても、ぶっ飛ばす、そのくらいの個性持ってないとこの国では生きていけないもんね。その生意気さ、生きていけるよ」
と20年前、忘れもしない、オデオンの路上で、そう太鼓判を押された。
あれから20年だ。俺たちは当時、42歳だった。

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」



つい、一月ほど前、カルチエの映像広告が流れていて、すらっとかっこいい男がカメラ構えてシャッター切っていた。TVCMみたいなやつ、それが、諭だった。
「見たぞ、カルチエのテレビ広告に出てたか?」
とメールしたら、
「笑ってやってくれよ」
と返事が戻ってきたばかりだった。つい、先月のことじゃん。
彼は若い頃、イタリアンヴォーグなどの表紙なども手がける、その業界では第一人者で、でも、いろいろと夢があって、ぼくには、いつか俳優もやりたい、映画も撮りたい、と夢を語っていた。
いいね、と言い合って、オデオンのカフェで二人で静かに熱く語り合ったものだ。
そうだ、もの凄く物静かな、でも熱い男だった。

デザインストーリーズの創設期から、応援してくれていた。
「ああ、なんかやる。発表するよ」
と諭は言った。
カルチエの動画ではまるで、俳優のように、動いている。あれが、最後の作品になったのかい?
なんか、文章にすると泣けてくるなぁ。涙なんか流したくないのに、・・・
こんな文章、書きたくないのに・・・

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」

※ すべての写真の著作権、©スーパーマー君



実は、木曜日、ぼくはNHKの「ボンジュール、秋ごはん」の散歩風景の撮影のために、オデオンにいた。
ちょっと諭の顔を見たかったのだ。
足は、間違いなく諭のギャラリーに向かっていた。
「友だちのギャラリーがすぐそこにあるんだけど、行ってもいいかな」
とスタッフに訊ねた。
「昔ね、ここはぼくがパリで最初にアパルトマンを借りた場所なんだ。その家主がカメラマンで、すぐそこでギャラリーやってるんだよ。諭っていう、あまり友だちのいないぼくだけど、パリの数少ない同年代の仲間でね、会わないけど、オデオンにいるから、安心で、なんか、同志みたいな・・・。どうしているかな、近くだから、顔出したい」
オデオンのアバンギャルドな壁絵の前で、ぼくは昔話を語ったばかり・・・。
「じゃあ、ちょっと顔出してみようよ」
で、そこへ向かっていたのに、いろいろなものに阻まれ、諭のギャラリーには辿り着くことが出来なかった。
ま、仕方ない、また今度にしようか、とぼくはスタッフに告げて、シテ島へと渡った。
つい、6日前、ぼくはあいつの仕事場のすぐ近くにいて、そのことをカメラに向かってしゃべったのだけど、・・・

武豊のおっかけZ氏から届いた写真を見ながら、ぼくはもう一度泣いた。悔しいよな。まだ、いっぱいお互い夢があったのに・・・。
でも、仕方がない。またきっと、会える。
もしよければ、七種諭がオデオンにギャラリーを作った時にした「インタビュー」がある。
下に、掲載しておくので、ご興味のある皆さん、彼の才能を見て頂きたい。
こんな日が来るだなんて、本当に運命というものは悲し過ぎる。諭は、命をどこまで運んで行ってしまったのだろう。でも、20年前も、今も、ありがとうな。またな。

1,THE INTERVIEWS
フォトグラファー、七種 諭「人生は一期一会。ギャラリー DA-END の挑戦」
は、こちらから↓

https://www.designstoriesinc.com/special/interview_satoshi-saikusa/

滞仏日記「命を運ぶと書いて運命だから、ぼくらは毎日、命を運ぶ人」



自分流×帝京大学
新世代賞作品募集