JINSEI STORIES

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」 Posted on 2021/10/21 辻 仁成 作家 パリ

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某月某日、いや、災難というのは続く。
ぼくは昨日、月に一度必ず見舞われる「家事やりたくない病」に罹り、午前中は寝込んでいたのだけど、昼ごろに、保険会社から一本の電話がかかってきた。
「3時45分に16区の工場の予約がとれました、どうします?」
冷蔵庫が壊れ、車のフロントガラスが飛び石で傷がついた、ことは先の日記で書いた通りだが、冷蔵庫は翌日新しいのに買い替え、もちろん、大変だったけど、なんとか日常復帰はできた。
で、フロントガラスは保険屋さんに頼んでいたのだけど、工場が埋まっていていつできるかわからないという返事だった。
ところが、今日、不意に予約がとれた、というのである。ぼくが絶不調の日に・・・。

しかし、ほったらかしているとヒビが温度差などで広がり、粉々になるかもしれない、と脅されたので、修理工場に向かうことになった、父ちゃん。
絶不調なんだけど、これは仕方がない。やれやれ。
「一時間半後に、戻ってきてください」
「一時間半? そんなにかかるんですか?」
修理工場の人は肩をすくめてみせた。
「ヒビを直すんですよ。当然ですよ。あ、よければ、奥の待合室でお待ちください」
「いいや、散歩してきます」
ということで、馴染みのない16区をふらふらと歩き回った、父ちゃん。
秋が深まり、パリの風景は物悲しいけれど、絵画のようで、心に迫るものがあり、散歩は一時の気休めになったのである。

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」



川を挟んで真正面にエッフェル塔がどーんと聳え、恋人たちが記念撮影をしていた。
にやにやと微笑みながら、父ちゃんは、ポケットに手を突っ込んで、高級ブティックなどが立ち並ぶ、お金持ちの街、パッシー地区を散策することになる。
なんとなく、高級な世界が広がっていた。
ぼくが暮らす左岸とはぜんぜん、違うのである。

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」



パッシー地区の商店街のはずれを歩いていたら、歩道を箒で履いているひょろっと背の高いおじさんがいた。
なぜか、その人がぼくを見て、
「だめだなぁ、そんなに髪の毛伸ばしっぱなしじゃあ」
と吐き捨てたのである。
「え? (ぼく?)・・・」
セーヌ川ツアー&ライブの前日にうちの近くの美容院でカットされてから、ハサミを入れてないことに気が付いた。
「ヨシ、カットしてやるよ。来い」
「ヨシ?」
この人はぼくをヨシという人と間違えている。
ヨシというからには、日本人なのだろう。
あれ? うちの近くのカフェのギャルソン、クリストフもぼくのことを「ヨシ」と間違えていたっけ・・・。
どうやら、パリに、ぼくにそっくりな「ヨシ」なる人物がいるのかもしれない。
ぼんやり、佇んでいると、一度、店に入った美容師が、ほら、早く、と手招きした。
あ、いや、ぼく、ヨシさんじゃないんですけど・・・
美容師がぼくの腕を掴んで店の中に引きずり込むと、他の店員たちが、ぼくに笑顔を向けて、サリュー、と言った。
サリューってのは、仲間たち間で使う、気安い挨拶の言葉である。
「さ、さりゅ」
ぼくは仕方なく、ヨシになりきることになった。

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」



「しかし、伸ばすつもりだったのか?」
「え? あ、ぼくは昔からロン毛が好きで」
「流行らないよ。今時、ロン毛なんて、君のハットともツーマッチだ」
たしかに、と思った。
「日本のプリンセスの婚約者さんがニューヨークでポニーテールにして、日本人から顰蹙買ってるんでしょ? 俺がカットしてやったのに、やっぱフレンチスタイルが一番だよ」
「よく知ってますね」
「ヨシ、君が教えてくれたんじゃないか」
「ぼくが?」
やばい、ここに、本物のヨシが現れたら、ぼくはどうすればいいんだ!
次の瞬間、恐ろしいことが起こった。目が見開いたまま、動かなくなってしまった。
というのは、美容師がいきなり、ぼくの髪をバサっと切ったからである。

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」



「ちょっと、そんなにいきなり切るの?」
「切ろうよ」
「切ろうよ、じゃないじゃん。しかも、後ろまで」
「ヨシの髪を、もう10年近くカットし続けてきたから、この髪質のこともよく心得てるから、まかしとけよ」
何言ってんだよ。10年もカットしてきた客の顔を見間違えるくせにか!!!
ぼくは、今からでも遅くない、自分はヨシじゃない、と告げて、そこから飛び出そう、と思ったのだけど、ジャケットとハットを人質にとられていて、・・・ハットした。
女店員が近づいてきて、
「ヨシ、ボブカットがいいわよ。フレンチスタイルになって、日本に戻ったらいいんじゃないの。みんなに注目されるわよ」
あかん、もう、終わりだ・・・

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」



「はい、どう?」
諦めて、時の流れに身を任せていた父ちゃん、正面の鏡に映った自分の頭髪を見て、卒倒しそうになった。
前はまだましなのだが、本当に、ボブカットで、分かりやすく説明をすると、ヘルメット。
ヘルメットをかぶった日本のおじさんなのである。
しかも、なんなんだよ、この美容院、うなじのところが正面から見てもわかるくらい、ジグザグにカットされているじゃないか・・・。
自慢気味な微笑みを浮かべて、ぼくを見下ろす、ひょろっとした美容師。
「ヨシ、ついに、ジョニーデップになったな。あのハットかぶってみなよ、ぜったい、ジョニーデップだよ。デップ」
「はぁ、デップ?」
文句を言って、揉めるよりも、地元に帰って、うちの近くの馴染みの美容院に泣きつこう、と思った、父ちゃんであった。
「10%、引いとくね、50ユーロ」
ぼくはカードで支払い、その見知らぬ美容院を飛び出した。
走って、修理工場まで戻る間、うなじにあたる秋風のなんと冷たかったことか、冬に風邪をひいたら、ヨシくん、君のせいだからね!!! 
NHKの撮影が終わっておいて、よかった。しばらく、大人しくしていよう、あ、日曜日に地球カレッジ!!!

つづく。

滞仏日記「呼び止められた美容師さんに引きずり込まれた美容院で、ぱっつん!」

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