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滞仏日記スペシャル「世界遺産に登録されたニースで魂を休める。この素晴らしき世界」 Posted on 2021/11/23 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、悲しい知らせを受けて昨日は一日動けずにいたぼくだけど、今日から三日間、ニースに行かなければならない。
親善大使の初仕事で、ニース市から招かれていた。
通過したことはあったけど、降り立ったことはなかった。
今は、むしろ、はじめてのニースへの旅がもしかすると、この悲しみを癒す小さなきっかけになるかもしれない、と思って、きっとそこに救いを求めている。
家で塞いでいても、その悲しみから離れられないし、動いたり、移動した方がいいだろうと、リュックサックに2日分の着替えを詰め込んで、出かけることになった。
親族同然の仲間の死をどうやって克服していけばいいのか、分からないまま、ぼくは荷物をまとめてタクシーに飛び乗り、オルリー空港を目指した。
落ち着かない。でも、動かなければ・・・。
まるで、それは予め用意されてたような、心を癒す旅となった。

滞仏日記スペシャル「世界遺産に登録されたニースで魂を休める。この素晴らしき世界」



ぼくはフランス親善大使に就任してから、コロナ禍ということもあり、まだ、役目を果たせずにいたが、今回、ニース市から強い要望があったので、ニースの歴史や文化を学び、その素晴らしさを日本に届けるために、勉強することが第一の目標であった。
その中にはニース観光局長やニース市副市長との会談なども組まれている。(仕事ではなく、すべてボランティアです)。
歴史的建造物や美術館、文化活動の視察などもやらないとならない。
このような落ち着かない状態で、ニース市のことをきちんと学べるかわからなかったが、パリを離れ、今はひたすら、遠くに行きたかった。
とくに、南の海、地中海に沈む夕陽を見て、その人に、お別れをしたかった。
飛んで帰りたくても、今は、それが出来ない時代なのである。
海と宇宙で繋がるのに、もしかしたら、ニースはいいかもしれない、と思った。
行ったこともないのに、これはただの感でしかなかった。

滞仏日記スペシャル「世界遺産に登録されたニースで魂を休める。この素晴らしき世界」



行きはオルリー空港からエア・フランス機で出発となった。
ニースまで一時間半で到着してしまう、近すぎず、遠すぎず、この距離は苦痛ではなかった。
暗くて凍えそうなパリから南国のニース空港に到着したぼくを出迎えたのは、ハワイのような風景で、正直、あまりに予想外で、びっくりした。
浜辺が砂じゃなく、石なのだけど、それ以外はハワイに似ている。
ワイキキビーチのようなボード・ラ・メールが延々と連なり、並ぶ大通りが有名なプロムナード・デ・ザングレである。
それに面して、歴史的なホテルが立ち並んでいる。
ヤシの木が等間隔でビーチに聳え、ぼくの知る他のフランスのリゾート地とは全く違っているのだ。
もちろん、西フランスのぼくのアパルトマンがある田舎ともぜんぜん異なる。
ちょっとアメリカンな世界だけど、カンヌやマルセイユとも違って、よくできた絵葉書のような、美しいイラストのような世界がまったりと広がっているところが特徴かもしれない。
とにかく、ホノルルに並ぶ、美しい世界であった。ぼくは海沿いのホテルに案内された。

14時45分、ニース観光局の広報担当アンヌ・ベルトロさんがホテルにぼくを迎えに来てくれた。
今日は初日なのと、ぼくが落ち込んでいることを聞いていたようで、過密スケジュールを変更してくださり、ボード・ラ・メールをひたすら歩く日にしてくれた。
粋な計らいというか、多分、パリから連れて行った撮影チームが裏で事情を話したのに違いない。
カメラマンのピエール(あの、おなじみの我が町の風来坊、ピエールである)がぼくに寄り添い、浜辺を歩いてくれた。
いやはや、あまりに旅情の溢れるセンチメントな浜辺であった。

滞仏日記スペシャル「世界遺産に登録されたニースで魂を休める。この素晴らしき世界」



ぼくはそこで自然に手を合わせていた。
「落ち着くまで、無理をするな」とピエールが言った。
「ニースは、心を休めるためにある街なんだから、ちょうどいい。世界中の人間がこの太陽に癒されるために集まって来るんだ」
ピエールはやたらとニースのことを知っていた。
「詳しいね」
「ぼくも苦しい時はここに来る。毎年一度は来る」
「そんなに苦しいのか?」
「ほっとけ。とにかく、その椅子に座ってごらん。暫く何も考えなくていい」
ぼくは言われた通りにした。
ニースの太陽をなんと表現すればいいのだろう。
目の前に広がるのは地中海なのだ。
ぼくの田舎の海、英仏海峡は厳しい北の海だけれど、ここの海は凪いている・・・。
ここで、お別れが出来ることには、救いがある。

その後、アンヌがそのプロムナード沿いにあるヴィラ・マセナに連れて行ってくれた。
19世紀の邸宅を利用した美術館なのだけど、歩き疲れたぼくには心地よい木陰であった。
展示品は18世紀末から20世紀初頭ベルエポック時代のニースの風俗・歴史を物語る絵画や美術品が中心であった。
ここで、歴史・文化好きのピエールが不意に感動してしまい、写真を撮りはじめ、どこかにいなくなってしまった。
一方、ぼくはそこまで興味がわかず、スタッフから遠ざかり、玄関のシーザー像の横に座っていたのだけど、背の高いおじさんがやってきて、それはシーザーじゃないんだよ、といきなり話しかけられてしまった。
その時、周囲にはぼくしかいなく、みんな美術館の見学に出ていたので、仕方なく、じゃあ、誰ですか、と聞きかえすと、ナポレオン一世なんだ、と言うではないか。
実は、ぼくはナポレオンが大好き。
悲しい時というのは気を紛らわせた方がいいので、ぼくは立ち上がり、おじさんと一緒にその大理石の銅像を見上げた。
「ナポレオンはシーザーに憧れていたんだ」
「そうなんですね」
「ああ、彼は世界を統一したかった。だから、こういう像を作った」
「へー」
「ちょっと来てごらん」
ま、誰もいないし、いいかな、と思ってついていくと、そこは小さなベルサイユ宮殿という感じの建物で、いやはや、凄い調度品が並んでいる。
遠くで、うちのスタッフたちがコーディネーターさんにいろいろと話しを聞いているのが見えた。
でも、ぼくはこの笑顔のおじさんの方が楽しかった。
「ニースというのはもともと貧しい漁師たちの村だったんだけど、これだけの太陽と風と穏やかな空気が流れるせいで、世界中のお金持ちが立ち寄るようになり、その金持ちたち相手に観光開発が進んで、レストランや高級ホテルなどが次々にできていくんだ」
おじさんは、古い写真や絵画を紹介しながら、ぼくにニースの歴史を教えてくれた。何度か、逃げだした方がいいかな、と迷ったけど、ぼくはかなり落ち込んでいたし、こういう時は誰かの蘊蓄に身をゆだねるのも悪くない。

滞仏日記スペシャル「世界遺産に登録されたニースで魂を休める。この素晴らしき世界」

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「そうやってニースは本当に自由な都市として栄えるのだけど、ある日、英国の女王がやってくるようになり、フランスなのに、まるで英国のような世界がここに出来る。当時の英国の政府関係者がここに集結したこともある。カトリックの国なのに、ここにプロテスタントの教会が出来たり、宗教からも、セクシャリティからも完全に自由な世界が登場するんだ」
なんと答えていいのかわからず、ぼくは黙っておじさんにくっついていくのだけど、不意に、通された食堂に感動をした。
光りが円形のサンルームから降り注ぎ、中央に食卓がある。
「この大邸宅には昔、6人が住んでいた」
「たった6人。こんな宮殿に?」
「その6人をサポートするために60人が住み込んでいたんだ」
ぼくは笑った。おじさんも苦笑した。そこにピエールがやってきて、まもなく、アンヌたちも合流した。

滞仏日記スペシャル「世界遺産に登録されたニースで魂を休める。この素晴らしき世界」

※ こちらはナポレオンのデスマスク。

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「あれ、館長。ムッシュ・ツジともう親しくなられたんですか?」
「え?なんだって?」
ぼくはマスクをとり、笑顔を向けた。
館長と言われた人もマスクをとった。
いるな、日本にも、こういう紳士、と思った。
下北沢の打心蕎庵の伊東さんにそっくりだ。(知るか)
おじさんはぼくがロッカーで親善大使だと知り、ああ、なんか凄い恰好をしているから、ただものじゃないと思っていたけど、ロックンローラーさんでしたか、と言った。
一同、大爆笑。
ぼく、泣きたいのに、笑ってしまった。
ごめんね、不謹慎で・・。
でも、笑った方がいい、と思った。
ピエールが館長(あとで分かるのだけど、彼はジャン・ピエール・バルベロという名前だった)に今度は調度品について質問をはじめ、ぼくはアンヌと二人きりになった。
今日、はじめて会ったニース人だったけど、いいところでしょ、と彼女は優しく言ったのだ。
「ああ。もしよければ、夕暮れのプロムナードをもう一度案内してほしいんだ」
「オッケー。きっと、今夜は眠れますよ」
ぼくらは陽が沈むギリギリ最後のボード・ラ・メールをそぞろ歩きすることになる。
ぼくは沈む太陽に向かって、手を合わせた。
「ありがとう。いつも、支えてもらって、感謝しかありません。お元気で、さようなら。本当に、本当に、あなたにはお世話になりました」
と祈っていた。
目の奥にその人の優しい笑顔が浮かんでいた。それが地中海の赤い光りの中で、静かに瞬いていた・・・。

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