JINSEI STORIES

滞仏日記「プーチン大統領のマトリョーシカ人形をどこに捨てるかで悩んだ」 Posted on 2022/02/28 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、それでも前を向いて生きていかなければならない。
ウクライナから入って来る英国やフランスの各通信社のニュースを斜め読みしながら、午前中を過ごした。気が重くなる。
昨夜はゼレンスキー大統領の人物像に迫る記事を、その前日にはロシアとウクライナとの戦争に至るまでの歴史的背景や関係についての記事をデザインストーリーズで配信した。
多くの方がアクセスをしてくださった。やはり、人々の関心はウクライナに向いている。
昼ご飯前に、DSのライターさんらと今後のウクライナ危機についてどの角度で執筆してもらうか、ZOOM会議などをやっていたら、暖炉の上に置いてあるプーチン大統領のマトリョーシカ人形を見つけ、ゲっと、強張ってしまった。

滞仏日記「プーチン大統領のマトリョーシカ人形をどこに捨てるかで悩んだ」



これは、2016年11月に息子とモスクワを旅した時に買ったお土産であった。
笑えるし、今のロシアを物語るもので、中に、エリツィン元大統領とゴルバチョフ元大統領が入っていたこともあって、面白いから買ったのだった。
掴んで、どうしようか、悩んでいると、息子がやって来て、それはまずいよ、と呟いた。
「たしかに、マトリョーシカ人形に罪はないけど、これはダメだな。気が滅入る。処分しとくよ」
ぼくは高校時代柔道部に在籍していたので、柔道八段のプーチンさんは、柔術家として、凄い人なんだろうな、と昔、誤解をしていたのだ。
ともかく、お土産だし、今のロシアを表すのに一番適していると思って、他意もなく、プーチン大統領のマトリョーシカ人形を買ったのである。
「柔よく剛を制す」
という言葉が好きだった。
昔、柔道をやっていた父さんに教わった言葉であった。
「ひとなり。身体の小さな人間でも、相手の力を利用して、大きな人間に勝つことが出来るという意味だ。覚えておけ、それが柔道の素晴らしさなんだ」
と父さんはぼくにそう言った。
背が高くないプーチン大統領もその言葉を絶対知っているはずだった。
でも、それは今、ウクライナの人たちの言葉だ。
プーチンが率いる超大国のロシア軍は「剛」で、小国ウクライナの人々は「柔」であろう。
一晩でキエフは制圧されると思っていたが、ウクライナ軍とゼレンスキー大統領は持ちこたえている。
ギリギリの攻防であろうが、(一部を除く)世界中のほとんどの世論を味方に付けることが出来たし、何より、士気が高い。
まさに、柔よく剛を制す、がそこに存在していることをぼくは知った。
祖国のために戦うウクライナ人と、命令で動くロシア人との間には大きな差があった。

滞仏日記「プーチン大統領のマトリョーシカ人形をどこに捨てるかで悩んだ」



ぼくはマトリョーシカ人形をどこかに捨てようと思い立ち、ポケットにいれて、家を出ることになる。
マトリョーシカ人形に罪はない。でも、こんなものを家に飾っておけるはずもない。
どこかに捨てなきゃ。ウクライナの人たちに平和が戻ることを願いながら、どこかで処分しなければ、と思った。
近所のカフェに行くと、そこにいる常連さんたちがみんなウクライナとロシアの戦争について語っていた。
「自分がこんな風に、当たり前に平和でいられることを思うと、胸が痛む。ウクライナの人たちにいつ平和が戻るのか、考えるとため息が出る」
彼の名前は知らないけど、いつも同じ席に座っている100番地に住んでいる白髪のおじさまだった。
ぼくを振り返り、背中を向けて座ってすまないね、と礼儀正しく謝ってきた。
いいえ、大丈夫。あなたの優しい気持ちは背中からも滲んでいますよ、とぼくは返しておいた。
その時、誰かが言った。
「プーチンはさすがにもうだめだな。子供まで殺害をして、許されるはずがない」
周囲にいる常連の客たちがみんな神妙な顔で頷いていた。
それからしばらく、人々はウクライナ人がロシアとの闘いで、死力を尽くしていることを語りだした。フランスに何が出来るだろう、という議論へと広がった。
しばらく聞いていたが、カフェが重たい空気に包まれたので、ぼくは三四郎を連れて、そこを離れることにした。

滞仏日記「プーチン大統領のマトリョーシカ人形をどこに捨てるかで悩んだ」



今日のパリは穏やかで快晴の日曜日だった。
大勢の人々がエッフェル塔周辺の広場に出て日向ぼっこをしていた。
この幸福な春を予感させる空気が申し訳なかった。
三四郎を小一時間走らせ、ぼくは家路についた。
すると、夕方、プーチン大統領が、
「西側諸国に対して、核抑止力部隊に高度警戒態勢を置くように」
と命じたのだ。
ぼくはポケットの中のマトリョーシカ人形を取り出し、そのままゴミ箱へと叩きつけた。
この人は人間として、間違えている。
ただ、この世界が彼とともに道連れになるのはごめんだ。
力の強いものが世界を支配できるなら、民主主義などは存在できない。
こんな人が柔道に心酔していたことも腹立たしかった。
戦争を感情的に利用したのに、思った成果がすぐに出ず、焦って核兵器を散らせつかせ始めたプーチン氏。
戦場で愛する子供を亡くしたロシア兵の遺族は今、何を思っているのだろう。

つづく。

滞仏日記「プーチン大統領のマトリョーシカ人形をどこに捨てるかで悩んだ」



自分流×帝京大学
地球カレッジ