JINSEI STORIES

退屈日記「街の哲学者、この戦争について、かく語りき」 Posted on 2022/03/26 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、カメラマンのピエールに招待されて、彼がよく行く、コルシカ人ニコラのワインバーに行った。
信じられないことだが、あのうさんくさいピエールがぼくにご馳走するというのである。
NHKの「ボンジュール」シリーズが続いているのをまるで自分のことのように喜んでくれている。それは嬉しいけど、奢ってくれるお金があるのか?
けれども、友人の、こういう誘いはむげに断ってはいけない。夕飯の準備をしてから、ちらっと顔を出すと、街の哲学者、アドリアンがいた。
「よお、エクリヴァン(作家よ)」
「ああ、フィロソフ(哲学者よ)君も招かれたのか?」
ぼくらは乾杯をした。さっそく、ウクライナ危機について、アドリアンの最近の考えを聞くことにした。
「ところで、この戦争の行方、君はどう思う?」
ぼくはアドリアンに問うた。
「ああ、あれか」
とアドリアンは不屈な笑いを浮かべた。

退屈日記「街の哲学者、この戦争について、かく語りき」



コロナのパンデミックが始まった頃に、この日記で、コロナの行方について語ったアドリアン。
「どんどん罹ってコロナを受け入れる社会になる」と彼が豪語していた通りの世の中になりつつある。
2020年の3月にはすでにwithコロナをアドリアンは提唱していた。その先見を今回もあずかろうという次第である。
「ツジー、4月の中旬くらいにはっきりとしてくるとぼくは読んでいるよ。早ければ、10日前後かな」
「具体的だね。それにもうすぐじゃないか」
「ま、ロシア軍はもう武器も、食料も、支援物資も、何より軍隊の士気も底にある状態だからね。補給線は不安定だし、三日先が見えない。経済もすでにデフォルトが始まっているので、夏を待たず、ロシアの経済はどん底になる。いくら独裁者が戦えと言っても、戦争なんか今の国内事情では続けられない」
「じゃあ、戦争は終わると思ってるの?」
アドリアンの目がぎゅっと見開き、ぼく睨んだ。
「プーチンは今、やっと現実を見たわけだ。落としどころを探している」
「追い詰められたプーチンが核兵器を使うと思うか?」
「私は思わない」
「ほー、なんで?」
「プーチンは確かに失敗をした。しかし、自虐的になる理由もない。核兵器はそもそもプーチンがボタンを押すことはない。いくつかのフィルターが存在する。いくら愚かなロシア軍でも核ミサイルを打てばどうなるか、分かっている。むしろ、プーチンはこの戦争の落としどころを探しはじめた兆候がある。まだそこまで自虐的になってないような気がする。自分らが失敗したことを国民に隠す必要があるので、今、あいつは姑息に落としどころを考え始めているんじゃないか」
「楽観的だね」
そこでピエールが口を挟んだ。
「世界を黙らせるために、ポーランドに小型の核兵器を打つ可能性もあるんじゃないかって、誰かが言ってたよ」
ピエールが大胆な意見を持ち出したが、アドリアンはしばらく考えこんでいた。

退屈日記「街の哲学者、この戦争について、かく語りき」



その時、ぼくらの背後でクラクションの鳴る音が響き渡った。
振り返ると、大きなタクシーが店の前で止まっていた。
しかし、支払いで手こずっているのか、なかなか人が下りてこない。
後ろの車ががんがんクラクションを鳴らし続けた。
店にいた者たちが一斉に振り返った。
アドリアンが立ち上がり店の外に出た。
するとタクシーからアドリアンの彼女(?)、弁護士のカリンヌが優雅に出てきたのである。
クラクションが再び鳴った。
ちなみに、アドリアンとカリンヌは夫婦ではない。
ルームメイトだ、と説明されたことがある。二人はまるで夫婦のように、いつも一緒で、その関係はよくわからない。
アドリアンがクラクションを鳴らす車のボンネットの前に立ちはだかった。
葉巻をふかしながら・・・。
するとクラクションが鳴りやんだ。
しばらく、威嚇し、シガーの煙をフロントガラスに吐きつけてから、店にゆっくりと戻って来た。
一足先に入って来たカリンヌにぼくはワインを注いだ。
アドリアンが戻ってくると、店の前の車の流れがスムーズになった。
「あのね、ぼくが君をはじめて目撃した時、ぜったい、マフィアだと思ったんだよ」
ぼくがアドリアンに告白した。
ピエールが、たしかに、と同意した。カリンヌも笑っている。
「ぼくはイタリア生まれだけど、マフィアじゃないよ」
「でも、あの運転手、青ざめた顔で、ハンドルを握りしめていたよ」
ピエールが笑いながら言った。アドリアンも笑った。
「タクシーが客を下ろすのは仕事だ。そのタクシーに向かって、クラクションを鳴らし続けるのは営業妨害だからね、睨みつけておいた」
アドリアンの顔や風貌は確かに怖いのだけど、彼は、ルネ・デカルトの研究者なのだ。心身二元論などを専門としている。

退屈日記「街の哲学者、この戦争について、かく語りき」



「ところで、この戦争はどうなる?」
とぼくが再びアドリアンに意見を求めた。
「落としどころを見つけるのは実は簡単じゃない。今、プーチンを失脚させるのも簡単ではない。誇り高い、ウクライナ人を支配するのはもっと簡単ではない。湿った荒縄を首に巻き付けたプーチンがいる、と思ってくれ。荒縄は時間が経つと次第に乾いていく」
「なるほど。哲学的な意見だな」とピエール。
「乾いていくと縄がプーチンの首に食い込む。その縄のせいで呼吸が次第に出来なくなる。食い込んだ縄は時間とともにさらに乾燥し、締め上げてくる。もはやナイフでは切れない。首も切ってしまうからだ。そういうことがそのうちに起きるとぼくは思っているよ」

つづく。

退屈日記「街の哲学者、この戦争について、かく語りき」

今日も読んでくださり、ありがとう。

地球カレッジ



自分流×帝京大学