JINSEI STORIES

退屈日記「朝起きたら、三四郎がいなくてしょんぼり父ちゃん」 Posted on 2022/07/01 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、日本行きの諸準備やそれに伴う取材とかZOOM会議が目白押しでバタバタ混乱が続く辻家だが、一晩あけて、寝ぼけて、「散歩にでなきゃ、三四郎のおしっこが漏れちゃう」と慌てて飛び起きたものの、いつもいる場所にいつものサンシーがおらず、衝撃が走った父ちゃんであった。
「さんちゃんがおらん」
思わず、言葉が飛び出した。
「さんちゃんがおらん」
思わず言葉にしている自分が心配になる。これは三四郎ロスだと分かっているのだけど、毎日、そのために頑張っていたのに、そこにもう頑張る対象がいなくなって、破壊的な肩透かしをくらった状態なのである。
「さんちゃんがおらん」
出てくる言葉はこれしかなく、もう、脳が静止・・・。

退屈日記「朝起きたら、三四郎がいなくてしょんぼり父ちゃん」



がらんとした三四郎の部屋(玄関)はきれいに片付いている。あれ?
いつもだと、床とかマットとか肘掛け椅子の上であおむけで寝ている三四郎の姿がない。三四郎のためにドッグフードを準備する必要もないし、散歩に連れていくこともしないでいいし、ポッポ(うんち)を片付けることもないし、遊んであげることとか、悪戯を叱ることさえ、もうないのだ。
やれやれ「ロス」感もここまでくると、暴力的である。
「さんちゃんがおらん」
ぼくは夏の間、この三年間たまりにたまった日本の大仕事をやっつけに戻るので、その間、三四郎をドッグトレーナーのジュリアのところに預けた。ジュリアの家はほぼ犬の合宿施設になっていて、ミニチュアダックスのリッキーやいつもの犬たちとサンシーはそこで寝泊りをすることになる。他の犬たちとの共同生活は三四郎にとっていい勉強になるし、毎日、森に散歩にいくようだから、楽しい夏休みになることだろう。
ジュリアは三四郎を可愛がっているので、彼だけちょっと特別扱いを受けているようだ。(ジュリアのベッドで三四郎はジュリアと寝ている・・・ゥうう、仕方ない)
ぼくは一人でパリに残ることになる息子のため、その準備(買い物とか片付け)に追われることになる。大量のパスタと大量の米、ソースや醤油やオイルなど、生活必需品だけは取り揃えておかないとならない。
料理を習いたいというので、彼に教え、自炊生活のためのコツを伝授する。その後、ぼくは日本に向けて出発するのであった。
日本に戻ったら、怒涛のような毎日が待っており、この三四郎ロスも、その忙しさのせいで次第に薄れていくのだろう。新たな日常に取り込まれていくことになる。
「ううう、さんちゃんがおらん」
それにしても、今は、その激しいロスの中心にいる。大切な家族と離れ離れになった人が抱えるような寂しさの中で、ぼくは目の前のことを、きちんとやらないとならない。

退屈日記「朝起きたら、三四郎がいなくてしょんぼり父ちゃん」



くよくよしてもしょうがないから、一人で散歩に出ることにしよう。いつものモジャ男のカフェに行き、いつもの席でいつものカフェオレを飲むことにしよう。
「あれ、珍しいどうしたの? 今日は一人かい?」
モジャ男に言われるに決まっている。厨房の料理人たちや、他のギャルソンやオーナー夫妻がやって来て、独りぼっちのぼくに肩をすくめることだろう。
「ぼくはこれから日本なので、三四郎はドッグトレーナーのところで他の犬たちと合宿なんですよ」
たぶん、言い訳じみたやりとりをして、その場を取り繕うのであろう。
それから、ポケットに手を突っ込んで、いつもの公園まで歩いて、広々とした芝生の中を歩くのだろう。人間というのはなんだろうな、と思う。
こういう寂しい気持ちを繰り返していくのに違いない。寂しいことが人生だから、しょうがない。
またいつか戻って来る日常を信じて、なんとかここは切り抜けなきゃならない。
頭を切り替えよう。日本で待ってくれている人たちに会いに行こう。三年ぶりのライブに向かおう。
ぼくは笑顔の訓練をしないとならない。
どんな時であろうと、雨であっても、微笑んでいたいから・・・。

つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
日記って、言葉にすると落ち着くものなんですよ。ぼくは言葉中毒人間だから、自分の悲しみをタイプしているとちょっと楽になるんです。もう、週明けから日本にいるので、街で見かけたら、ファイト、と声でもかけてやってください。あはは。
さて、お知らせです。
新刊エッセイ集「パリの空の下で、息子とぼくの3000日」は好調なようです。サイン会とかはやらない主義なのでそういうイベントはありませんが、書店さんにこっそりと覗きに行ってみようかな、と思っています。
ところで7月28日に予定している作家辻仁成のオンライン講演会は受講生の皆さんの中から都内某所まで来ていただくことの出来る40名(少なくて申し訳ありませんが、コロナ対策&セキュリティでこの人数になりました)をご招待させていただきます。講演会をそのまま配信するようなライブ感ある小説講座の第一回目となることでしょう。
詳しくは下の地球カレッジバナーをクリックくださいませ。
「さんちゃんがおらん」

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