JINSEI STORIES

滞仏日記、2「家族同様の愛車を息子が絶対手放したがらない」 Posted on 2020/01/30 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、渡仏直後の、17年前、息子が生まれる時に車がいるだろうということになり一台買った。その車に乗って家族旅行をよくした。家族が二人になってからはますますこの車の役割が増した。6年前に電気系統に不調が出たが、「ぜったいにこの子は売らないで」と息子にくぎを刺された。家族同様に付き合ってきた愛車君であった。とにかく家から学校までの送り迎えには、特に寒い冬の季節など、本当に助けられた。ぼくがシングルファザーになると愛車君に乘ってぼくと息子は欧州各地を巡った。制限速度のないアウトバーンも走った。安定感のあるいい車だった。何回か、買い替えようと試みたが、その都度、息子が大反対した。家族をこれ以上減らしたくない、という理由だった。ぼくも確かに、彼女(フランス語で車は女性名詞)には愛着があるので、廃まで乗るつもりであった。数年前、ぼくらは愛車にステファニーという名前を付けた。17年目なので、人間でいえば70歳くらいになるのだろうか。ステファニーおばあちゃん。

滞仏日記、2「家族同様の愛車を息子が絶対手放したがらない」



ところが、ある日、奇妙な警告灯が表示されるようになった。車屋に持っていき、チェックをしてもらったが残酷な返事が戻って来た。担当のバジリオが「廃車がいいでしょう」と言った。ついに廃宣告をされてしまったのだ。これは本当にショックな出来事で、じつはまだ息子には言えないでいる。「廃車にしないで徹底的な修理をする場合、7000€(100万円)もかかります。それはちょっとバカげたことです」と言われた。もはや僕に選択の余地はなかった。その3か月ほど前に窓が閉まらなくなりウインドーのモーターも交換したばかり(その時は1000€)で、この先はお金しかかからない。今回はトランスミッション、電気系統などの重要部分を全て取り換えなければならない。悩みに悩み、実は今も悩んでいる。バジリオに「息子にとってはこの車、家族同然で、考えてもみてくれ。自分が生まれる前からいて、父親と二人きりになった後、この車でスペインの突端まで旅行して、悲しみを紛らわせてくれたとっても素敵なステファニーさんだ。思い出の詰まったステファニーなんだよ。わかるか、擬人化しまくってるんだ。クラシックカーだって、走り続けているのに、なんとかならないのかね? 君」と言った。
「ムッシュ。ぼくは車屋だからはっきりといいますが、修理代に7000€はバカみたいな話しなんです。新しい思い出を作ったらいいじゃないですか? 息子さん、16歳ならこの国ではもう運転できる。新しいのを買って、新しい歴史を作るんです」
「バジリオ、君、商売上手だな」
「いいえ、ぼくは修理担当だから、車を売るのが本業じゃない。うちの車は優秀ですけど、でも、この先も、いろいろと問題が出てくる可能性があります。それより、息子さんを運転席に座らせましょうよ。彼にハンドルを握らせ、お父さんは助手席に座るんです。そういう人生を新しくスタートさせるには新しい車が必要です。今、フランス人の7割の人は新車を買いません」
「どういうこと?」
「リースが主流なんですよ。時代が違うんです。車は乗った日から値段が下がります。でも、この車、ぼくらが売った責任もあるし、お父さんの愛着の分を見積り、引き取らせて頂きますから、それを頭金にして、月々払ってはどうですか? リースだと、故障しても修理代を心配する必要はない。リースですから、傷ついても大丈夫。事故にあったら保険でカバーして、リースだから新しい車を即座にお渡しします。大事なことは過去にこだわらず、息子さんを新しい気持ちにさせることじゃないですか。彼が運転を覚え、二人の旅は新しい段階に入るんですよ。どうですか? 新車をリースしませんか?」

ぼくは頷いてしまった。この男は優秀な営業マンにもなれる。ということで、ステファニーとは不意に別れることになってしまった。あの子は今、車屋のガレージでぼくらが連れ戻しに来てくれることを、じっと待ってるかもしれない。思い出の詰まった愛車であった。息子にはどんな嘘をつこう。事故にあって、ぼろぼろになったから、もう会えない、というしかないだろうか。そして、同じメーカーの似たような車が納車される時に、その新しい車のカギを息子に渡すことで、ステファニーの意志をそこに託すことが出来るかもしれない。あゝ、それにしても悲しすぎる。

「ス、ステファニーーー、すまない。思い出をありがとう!」

滞仏日記、2「家族同様の愛車を息子が絶対手放したがらない」

自分流×帝京大学