JINSEI STORIES

滞仏日記「人類は必ず勝つと誓った、ぼくは誰もいない通りで」  Posted on 2020/03/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、外出制限が発令されて5日が過ぎた。最初の日は気が張っていたので「乗り越えてやるぞ」と意気込んでいたが、まだわずか5日しか経っていないのに、日に日に世界が変わって来た。息子は休校になった金曜日から一歩も外に出ていない。ぼくは買い物に行かないとならない。昨日、一昨日は快晴だったからよかったものの、今日は急に気温が下がり、曇天、なんだか世界が不意に悲しくなった。いつもの交差点に立ち、暫く、馴染みの界隈を眺めた。角のカフェは毎日大勢の人で賑わい、ギャルソンのクリストフも、店主のジャン・フランソワも僕が顔を出すと握手をしてくれたのだけど、今はもう、真っ暗で人の気配さえない。いつも飲んでたあのカフェオレがもう飲めない。

滞仏日記「人類は必ず勝つと誓った、ぼくは誰もいない通りで」 



斜め前のワイン屋は口のうるさいエルベが店主で、ぼくはそこでいつも油を売って過ごしていた。夕方には二人で乾杯をし、ツジ、お前は作家のくせにフランス語の文法がなってないな、とバカにされていた。なのに、あの口の悪いエルベの店は重たいシャッターが下ろされた状態が続いている。その隣の照明屋の偏屈で有名なディディエおじいさんは好き嫌いが激しく客を追い返したりする。でも、なんでか、ぼくは気に入られていて、顔を出すと満面の笑みでもてなされる。外出制限が出る前日、呼び止められて、ツジ、マスクは買ったか、ないなら郊外にはあるから買って来てやろうか、と心配してくれた。エルベとディディエは犬猿の仲だけど、ボケとツッコミ漫才は最高だった。なのに、今は会えない。いつも街角に佇み、酒臭いのに最高の笑顔を街中に振りまいていた名物シェフ、メディの姿もない。

滞仏日記「人類は必ず勝つと誓った、ぼくは誰もいない通りで」 

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その角を曲がったところにある中華レストランは香港出身のご夫婦がやっていて、とにかく辻家にとっては食堂のような存在で、息子が心を許す奥さんのメイライ、ご主人のシンコーの二人は遠い親戚のようだった。うちにご家族を招いたこともあった。でも、あの日以来、もう会ってない。メイライに会いたい、と息子が時々、呟く。ご飯に行くと、ぼくにも息子にもいつもぎゅっとしてくれる。元気にしているのならいいけど、どうしているのかなぁ、と心配になる。

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通りの中ほどには若者でごった返すロマンのバーがある。ロマンはそこをモロッコ人のユセフに売り渡した。このユセフが息子思いのいいお父さんで、ぼくが行くと、なぜかいつもお酒をごちそうしてくれる。彼は歌が大好きで、ぼくのことを日本の大歌手と呼ぶ。あはは、聞いたこともないくせに。バカにしているんだろうけど、奢ってくれるから許す。でも、イタリアで感染者が増えだした頃を境に、ぼくは彼らのバーには顔を出さなくなった。だから、すでに二か月近くもう彼らには会ってない。ここで知り合った南ア大学の教授、アドリアンもあの日以来、この辺から姿を消した。道端でいつも葉巻を燻らせていた。「ツジ、いいかい、今度のウイルスは手ごわいぞ、気を付けろ」

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その対面にある古本屋のクリスティーヌはもう高齢だから、一番心配だ。フランス全土が封鎖される直前、ぼくは彼女の本屋で拙著「白仏」を頼んだのだけど、在庫がなくなっているという版元からの返事で、結局買えずじまい。いつも一番奥の席に座り、本を読んでいる。80歳に近いと言ってたので、コロナにかかったら危険な年齢だ。ツジ、今、何を書いているの? 早く出版されるといいわね、が口癖だった。なかなか出版不景気でね、出ないんだよ、というのがぼくの言い訳。ツジー、と声をはりあげて本屋から出てきて、いつも手を振ってくれる。無事でいてほしい。

滞仏日記「人類は必ず勝つと誓った、ぼくは誰もいない通りで」 

八百屋はあいている。店主がぼくに「サヴァ?」と訊いてきた。ぼくは愛すべきこの街を見回し、「この街がこんなに悲しい色になってるんだから、サヴァじゃない」と言ったら、「いいかい、世界が終わりなわけじゃないんだ。ぼくらは負けないために戦ってる」とぽつんと漏らした。サヴァ、と訊き合うのがフランス人の挨拶だけど、聞きづらい世界になった。大根はあるかい、と訊いたら、奥から二本持ってきてくれた。
「もう一週間売れ残ったものだから、あげるよ。大根は食通の人しか買わないから、きっともう売れない。この良さがわかる日本人に食べてもらいたい」
ぜんぜん、綺麗な大根だった。でも、こういう時は喜んで貰っておくべきだろう。今夜、大根の和風カレーにしようと思った。大根と人参とインゲンと茄子と生姜を買った。

滞仏日記「人類は必ず勝つと誓った、ぼくは誰もいない通りで」 

八百屋を出たら、ツジー、と通り中に声が弾けた。慌てて、振り返ったが、誰もいない。ゴーストタウンのような街が広がっている。気のせいかな、と思って踵を返すと、再び、ツジーヒトナリー、と声がかかった。見上げると、目の前の建物の3階からギターを抱えたピエールが身を乗り出しているじゃないか。おお、ピエールだ!! ムースオーショコラ作りの名人、普段、何をしているのかわからない自称アーティストのピエールだ!
「サヴァ?」
思わず叫んでから、しまった、と思った。禁句だった。すると困った顔をして、ああ、まあ、なんとかね、と言った。
「ツジ、俺は一人だから、もうずっと誰とも話してないんだ。つまんね~よ。一人暮らしの人間には辛い時期だ。ツジ、外出制限が終わったら、また一緒に呑もうぜ、ロマンの店でもいいし、クリストフの店でもいい、メディの店でも、メイライのところでも。春が来たら、飲もうぜ」
ぼくは泣きそうになったけど、我慢して、笑顔を浮かべて手を振った。もう少しの辛抱だ。この世界が再び笑顔で溢れる日は必ず、来る。人類は必ず勝つ。

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