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滞仏日記「迷ったら、自分を大事にしなさい」 Posted on 2020/05/23 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、やっぱり、何より大切なことは「自分を大切にすることなのだ」と思う。それは「無理をしないことなのだ」と思う。昔、先輩に「辻、死ぬ気でやれ」とよく言われた。でも、そうじゃない、そういうやり方が一番ダメなのだ。死んじゃったら元も子もない。だからパパは「死ぬ気でやれ」と言われたら「はい、頑張ります」と言っていつも怠けていたんだよ。でも、その代わり、好きなことを徹底的にやった。学校の成績は悪かったけど、得意なことだけはだれにも負けなかった。結局、パパは、お金になろうとなるまいと、好きなことだけを続けてきた。だから仕事が苦しいと思ったことがない。好きなことだから、死ぬまで続けられる。定年もない。だから、君の考え方には賛成だ。とことんやりなさい。ぼくはそう息子に言った。



仕事をしていると息子が、「ちょっといい?」と言って仕事場に顔を出した。将来のことで相談がしたい、と神妙な顔で言うのだ。窓辺に一人掛け用のソファがある。隣の部屋からもう一つ持ってきて、向き合うことになった。進学についての悩みだった。
「だから、やりたくない仕事をしてお金持ちになることをとるか、好きなことをやってお金ではなく夢を追いかけて生きていくか、で悩んでるんだよ」
ぼくは、お金も必要だよ、とだけ言っといた。家族を養うためにはある程度のお金が必要になる。たくさんはいらないけど、ちゃんと食べられる生活は維持しないとならない。
「分かってるよ。でも、やりたくない仕事をやってストレスを感じる一生も人生ならば、自分がしたいことを追求して、お金はあまりなくても、毎日、生きてる意味みたいなことをひしひしと感じられる人生というのもあって、ぼくは最近、やっと気が付いた。自分は後者のような生き方を選びたいって」

「まだ、何を将来やりたいのかわからないんだ。明日までに選択科目を決めて学校に提出しないとならないんだよ。で、ぼくは数学を捨てるつもりなんだ。数学を捨てると、ぼくが進む道がかなり狭くなる。法律か経済か人文科学しか選択の余地がないんだ。でも、残念ながら、ぼくは数学が得意じゃない。その上、道も決まってない。なのに、モチベーションのない数学をとったら、ぼくは何年間もその苦手な問題と向き合わないとならなくなる。でも、数学を捨てると就職でふりになる。パパだったら、どうする?」



ぼくらは2時間以上向き合っていた。今日中に、息子は将来を決定しないとならない。用紙にサインをして学校に提出する。そこで、最後の最後に、ぼくに訊いてきたのだ。
「実はアントワンヌが落第するかもしれないんだ。みんなショックを受けている」
アントワンヌ君はうちにもよく遊びに来ていた。真面目で性格のいい聡明な子であった。息子の大事な仲間の一人である。アントワンヌは学校を変えるか、留年するしかない、と息子は言った。
「好きじゃない科目を選択して、無理をして、結果が出ないと、自分の性格がわかるからこそ、ぼくは学校が嫌いになるかもしれない。そうなると、成績も下がる。落第する可能性もある。好きな科目を選んで好きなことをやればきっとぼくのことだから成績は維持できる、もしかしたら、成績が上がり、その中から将来の仕事に関係する何かを見つけることができるかもしれない」
彼は2時間、一人で喋り続けた。ぼくはその間、黙って聞いていた。彼は今、大きな十字路にいる。誰もがぶつかる大きな十字路であった。そこで、最後に、冒頭のようなことをぼくは息子に言ったのである。息子は、わかった、と言って自分の部屋に戻って行った。

実は、結局、それは自分で決めるしかないことだったりする。その人がどう生きるかは、誰であろうと、親であっても、決めることは出来ない。ぼくはずっと息子を厳しく育ててきた。片親だからこそ、荒波を自力で乗り越えて行けるように、と厳しく育てた。躾に関しても徹底的にやった。だから、挨拶のできる子に育った。でも、もう16歳だ。ここからは好きに生きるべきなのだ。一つだけ言えることは「自分を大事にすること」である。それは親であるぼくの願いでもある。自分を大事に生きる、そう思うだけでもいいのだ。それが人生の基本中の基本なのだから。

息子よ。右と左に道が分かれていたとする。どっちに行くかで迷ったら、自分を大事に生きることが出来そうな道を選びなさい。

滞仏日記「迷ったら、自分を大事にしなさい」



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