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滞仏日記「口汚い言葉から遠く離れて」 Posted on 2020/06/02 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、嫌な思いをした過去のことを思い出して腹が立った。腹が立つことをひとたび思い出すと次から次に腹が立ってしょうがなくなる。ぼくはそういう時、「人間が出来てない」と自分に言い聞かせる。もう、ずいぶん前のことだし、今怒ったってしょうがないことを今更思い出して、今日を台無しにしているのは、他でもない自分なのである。「未熟だねぇ」とぼくはぼくに言い聞かせる。「人間が出来てない、未熟だねぇ」と自分に言われているのだから、情けない。そもそも、思い出して腹が立つというのは、いまだにその嫌な思いをさせられた人間や出来事の支配下にあるということ。関係ないなら、怒りも出ないわけで、今頃、怒ってるというのは、過去に引きずられているという証拠だろう。まあ、怒る元気があるのだから、それはまだ若さがあるという証拠かもしれないけれど、昔のことに振り回されているのは実にもったいない。そもそも進歩がない。つまりは未熟だということになる。未だ熟してないわけだから、怒るのだ。鏡を見ると、そこに未熟な自分が映っていた。暫くじっと見つめていたが、笑いが起きた。「やっぱり人間が出来てないよ、辻君」と鏡に向かって、ぼくはそう言った。こういう時は素直に反省をすべきだ。



ちょっと話しは変わるけど、最近、ネットを覗いていると、著名人が「ふざけんなボケ」とか「頭悪いんだよ」とか口汚い言葉をがんがん使っているので、あまりに多いから、日本の流行りなのか、と思っていたけど、読むのがだんだんきつくなってきて、ヤフーニュースとかセレクトニュースサイトはスルーすることに決めた。もう、ぼくは爺だし、海でも見てるか、と思った。子供たちが真似して、同じようなことを言う子が増えて、そこら中で「頭悪いんだよ」ってなるのに違いない、と思った。それが今の日本だから、しょうがないのか。政治でもなんでも、トップをバカ呼ばわりする人が多いけど、ぼくは思っても言わない。大勢の意志で決まったものなら、きちんと民意で翻すしか、しょうがない。変えたいなら、選挙に行くべきだし、行かないで批判してる人も本当に多くて、しょうがない。なんにもしないで、悪口だけ言っていても、多くの人の心は動かない。自分がすっきりしたいだけにしか思えない。なんとも、すっきりしない。

とはいえ、頭悪いんだよ、とか、ふざけんなボケは、世界中に溢れている。フランスだって相当汚い言葉が溢れていて、みんな挨拶するみたいに使っている。一応、息子が使う時は、パパの前では使うな、と教える。聞きたくない人間の前では使うな、それだけだ。



木村花さんの死も、警官に拘束死させられたジョージ・フロイドさんの死の背後に何か通底するものがある。痛みが分からなくなったこの世界が、その痛みの加減をコントロールできなくなって、必要以上の圧を加えて、死ななくていい人たちを殺している。マリア・テレサさんが、愛の反対は無関心だと言ったけれど、この言葉の意味を受け止めたい。多くの人が日本やアメリカや世界各地で愛の無関心に対して、抗議しはじめた。トランプ大統領は、「略奪が始まったら銃撃が始まる、ありがとう」と言った。何かにつけて言葉の足りない、口汚いこの人の言葉を多くのアメリカの子供が真似しないことを願うばかりだが、心優しい大男ことフロイドさんが人権を踏みにじられたこのタイミングで「銃撃がはじまる」だけはさすがに看過できない。ふざけんなボケ、頭悪いんだよ、という世界中の声なき声が聞こえた、気がした。きっと、空耳だろう。

 
©️Hitonari TSUJI
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滞仏日記「口汚い言葉から遠く離れて」

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