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滞仏日記「コロナをめっちゃ怖がっていたヒトナリへ」 Posted on 2020/06/05 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ヒトナリ、君はなぜ、あんなにコロナを怖がってしまったのだろうね。君の怖がり方は尋常じゃなかった。カッコ悪くて、日記には書けなかったことがあったよね? ロックダウンがはじまり、少ししてからのことだ。無症状の感染者からも感染するというニュースが出回った日、学校に行った子供を媒介にして親に感染をする可能性があると分かった頃、ワクチンもなく、特効薬もなく、テレビでは感染症の医者たちが敗北宣言を繰り返していた時期、どうやってももう予防出来ないと思ったあの瞬間、君はまさに地球に隕石がぶつかるの待つくらいの絶望感の中にいた。パリはロックダウンに突入していたし、感染者、死者数はうなぎのぼりだった。しかし、今の君はもう怖がっていない。それは新型コロナのことをよく知り尽くしたからかもしれない。ロックダウンが解除された直後、君は自分の周辺でコロナに罹った人や、コロナで亡くなった人を探し回った。すると、亡くなった人はいなかった。罹った人はいたけれど、その数人は全員、ほぼ無症状だったのだ。正直、風邪よりも厳しくなかった。フランスは世界で5番目に死者数の多い国だし、フランスの中でもパリは最も感染者の多かった都市だった。でも、ヒトナリ、君の知り合いで死んだ人はいなかったんだ。君の周りに入院した人や、重篤になった人は一人もいなかった。



フランス全土で3万人ほどの人が亡くなっている。君はこの数字に怯えてきたけれど、人口6000万人のこの国で3万人の死者に自分が入る確率って、どのくらいだろうと君は計算をした。交通事故で亡くなる人や、他の病気で亡くなる人よりも突出して多い数字だろうか、と疑問を持った。死者数はすでに頭うちで、ぐんと減じている。集中治療室のベッド数にも余裕が出てきた。何よりお医者さんたちは十分な経験を積んで、もはやフランスの、いや世界の医療従事者たちはスペシャリストである。つまり、このウイルスはある意味、制圧されつつあるのだ。

滞仏日記「コロナをめっちゃ怖がっていたヒトナリへ」

そして、ついに、君は大きな仮説を持った。アジア人は罹っても重症化しない、という医学的根拠はまだ分かってないけど、世界中で広く語られている仮説を信じ始めた。実際、君は調べた。日本だけじゃなく、ベトナム、タイ、インドネシア、香港、台湾、韓国、ミャンマー、マレーシア、ほぼすべてのアジア、東南アジアの国々は欧米に比べて驚くほどに死者数が少ない。君は計算機を叩いた。そこには200倍以上の開きがあった。ベトナムは死者数0なのだ。タイは58人なのだ。新型コロナの発生国、中国だって人口における割合からすると日本と変わらない少なさで、欧米、ロシア、南米などの感染爆発地域と比較すると、恐れる数字ではない。ウイルスの型が違うという説もあったけど、あらゆるウイルスが出回った今は、そういう理由だとももはや思えない。少なくとも、ヒトナリ、君は思いたくないみたいだね。
 「ツジー、君が羨ましいよ。アジアの人たちが羨ましい。君はぼくたちとジェーンが違うんだ。それが死者率に現れている」
 と今日もギャルソンのアントワンヌが君に言った。これは今現在、ほとんどのフランス人が持ってる意見だ。その時の君の安堵するような顔が忘れられない。ジェーンというのは遺伝子のことだ。そうだ、遺伝子が違うのだ、と君は息子を掴まえて、力説しはじめていた。
 「パパ、エヴィデンスを示してよ」
 息子の言う通りだけど、実は、君が正しい。今は、そういう風に考えることが大事な時期なのだということだ。エヴィデンスよりも、希望が君たちを救うだろう。



ロックダウンは解除されたが、多くの人がマスクをするようになったこと、そして、手洗い、消毒を日々の習慣にしていること、社会的距離をしっかりとるような社会になったこと、が感染の拡大を抑止しているのも事実だし、クラスターが起きても周辺の徹底したPCR検査と隔離政策で拡大を防ぐ体制も整いつつある。携帯で感染者を追跡するストップCOVIDも人権の国フランスでは広まらないと言われていたが、蓋を開けてみると多くの人が登録をしはじめている。君がかつて持っていた心配はますます杞憂になりつつある。結局、君は、自衛さえしっかりやっていれば罹る可能性は低くなるし、アジア人であれば重篤化をするのはレアケースだと結論付けた。薄く罹って症状を悪化させず、抗体を持てばいいと思うようになってきた。これは友人の哲学者アドリアンの受け売りだけれどね。そのための予防策は誰よりもしっかりやっている。何よりも、一生懸命勉強してきたことで新型コロナと共生しながらもやっていける方法、というよりも自信を君は身に着けることが出来た。ここまで警戒し用心している自分が罹るわけがない、という自信だ。最前線のパリで無事に生き抜いた経験の力もあるだろう。だから、今日、君は日本の友だちにこうメッセージを送ったのだ。
 「いまだにコロナを恐れているのかい? 恐れるのは大事だけど、恐れ過ぎると心をコロナにおかされてしまうよ」

君は今日も警戒しながらカフェに行き、社会的距離が保たれたテラス席でマスク姿のギャルソンと冗談を飛ばし合った。君は笑顔だった。ぼくはホッとしているよ。神経質になり過ぎて、家から出られなくなったら、コロナに罹る前に精神が壊れていただろう。みんなが家に閉じこもったら世界は回らなくなる。きちんと警戒し、恐れながら、予防措置を講じていれば、怖がることがないことを君は知ったのだ。ぼくはそれでよかったと思っているよ。ヒトナリ、笑顔を忘れないように今日も君らしく生きてほしいね。グッドラック。

滞仏日記「コロナをめっちゃ怖がっていたヒトナリへ」

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