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退屈日記「都会を離れて田舎で暮らす人が増えている」 Posted on 2020/06/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、アメリカで、最近、住宅を郊外に買い求める人が増えたという。同じ傾向がフランスでも起きている。都心から離れた田舎に家を買い、そこへ移住する人が増えているのだ。不動産屋の知り合いが、コロナの影響だ、と言った。一部の人たちが、人生を見つめ直しているのだという。実はぼくも、その一人だ。

ここのところ、ぼくはずっとパリから脱出することばかり考えている。息子がフランスの法律上、成人するまでにあと二年だ。あっという間である。
そして、ぼくはもうこれまでの価値観を追求しながら生き続けるつもりがなくなりつつある。
息子が巣立ったら、ぼくはぼくの残りの人生を自分のために使いたい。息子がフランスの大学に進んでくれれば学費は一切かからないので、彼は彼の道を進めばいい。

ぼくはパリを離れ、どこか田舎の小さな家であまり俗世と関わらないで生きていきたい。欲しいものもないし、栄誉も必要ないし、お金も最低限生きていく分だけあれば十分だし、もともと実は贅沢もしないし、美味しいものは自分で作れるし、身体は小さいから狭い家で十分だし、ほとんど食べないから食費もかからないし、お酒はやめてもいいし、そういえば服もぜんぜん買わなくなったし、ロックダウンを経験してから、いっそうお金を使わなくなったし、一番変わったのはぼくだってことに気が付いたのだ。

世捨て人になるわけじゃなく、陸地と海の間のような場所で、自然と向かい合って、スローライフに移行したい。時々、小説も書くし、歌いたくなれば歌うかもしれないけれど、引退するとか、断筆するとかそういう話しじゃなくて、ただ自分に素直に小さく生存していきたい。畑を耕し、出来ればそこで育つ野菜とか果物を収穫し、ささやかにこっそりと生きられたら幸せだろうな、と思う。

今は、毎日、そういう人生をずっと心に描き続けているのだ。なぜか、それはコロナの出現がきっかけだったと思う。そして、同じようなことを考えている人が急増している。世界中で。

退屈日記「都会を離れて田舎で暮らす人が増えている」



息子はもうすぐ大学生になる。彼はまだ若いので、都会が必要かもしれない。息子が一人暮らしをするまでの間に、ぼくは田舎に小さな家を見つける。すでに、探し始めている。情報を集めている。見つけたら、迷わず、そこで暮らす。これは真剣に考えていることだ。

もともと朧げに考えてはいたのだけど、強く決意したのは、たぶん、ロックダウンの最中だった。
これまでの価値観で生きていくのをやめた方が良さそうだな、と思った。
これまでの価値観で生き続けたら、ずっとこれまでのような人生を繰り返さないとならない、ろくなことはない、と思った。
コロナが収束しても、気候温暖化のせいもあり、別の感染症が出現するような気がする。
ぼくらはこれまでの集う社会で生きるのが困難になりつつあるのかもしれない。
もう誰も握手をしなくなった。この感染症はこの世界をリセットしたのだ。

限りあるこの狭い星の中で人間の数ばかりがどんどん増えた。人間は便利な都市に集中し、ありとあらゆる欲望がこの世界を支配し人間をコントロールし、超大国は争い、貧しい国はずっと貧しく、自然災害は増えて、環境は破壊され、新型ヒエラルキーの中で人間は人間であることの本質を失いかけている。
資本主義とか民主主義というよく意味の分からないものに洗脳されているけれど、少し冷静に考えてみると、それはゲームのようなものに過ぎない。そこに幸福の価値観を見いだせないのだ。

繰り返し。

退屈日記「都会を離れて田舎で暮らす人が増えている」



きっと、ぼくはこの都市型の生活から離れて、何か、これまでとは根本の異なる道へ踏み出してみたいのだと思う。
これはぼく一人で思って行動することだから、人に迷惑をかけることじゃないし、誰からも文句を言われることでもない。
あと、数年、息子が社会に出るまでの移行期をなんとか乗り切れれば、ぼくは形式上、自由になる。
新しい価値観などというチープな言葉では説明できない変化がそこに在る。

友だちも死んだ、世界はどんどんギスギスしている、南極の氷はものすごい速度で溶けているし、争いは絶えなく、そのことに超大国は無関心だし、あらゆる意味で地球は狭くなった。

人間は考え直さないと、遅かれ早かれこの地球はもたなくなる。経済の追求、便利さの追求はもはや限界に達しつつあるのに、うちの息子たちでも分かっているというのに、資本主義の亡霊たちに未だ支配されていることに、嫌気がさした。
この先、どこに人間らしさの余白が残っているのか、という話しだ。あと何年…。そこへこの星は向かっている。
その前に、ぼくはこの都市から離れるべきじゃないか、と思った。どうやって? いつか、ぼくはそうする。そのための場所を今、探している。

人間らしさを取り戻したい。そのためには、これまでのルーティーンを変えなければならない。人類は一度、小さく立ち止まるべき時期なのだ。立ち止まって新たな幸福感を模索するのがいい。都市を離れる。
そして、新しい生き方を考えたい。

退屈日記「都会を離れて田舎で暮らす人が増えている」



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