JINSEI STORIES

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」 Posted on 2020/06/14 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、犬はなんであんなに可愛いのであろう。なぜかぼくは犬に好かれる。歩いているとたいていの犬が近づいてきて、ぼくの周りをぐるぐるとまわる。飼い主さんに、この子は人見知りなのに、と驚かれたこともある。カフェでお茶を飲んでいると、飼い主とやってきた犬たちがぼくの足元にひっきりなしにやってきたりする。犬語がちょっと話せるからだと思う。犬語というよりはテレパシーに近い。見つめ合ってると近づいてきて、くんくん、してくれる。犬はきっと人間を裏切らない。だから、ぼくは犬が好きなんだと思う。だから、近所の人たちは時々、ぼくに犬を預けるのだと思う。ぼくはいろいろな犬を預かってきた。小さい子供も預かる。犬も子供もぼくを裏切らない。

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」



犬を飼いたい、と小学生の時に父親に言った。すると、ダメだ、と一蹴された。
「ヒトナリ、動物は死ぬんだ。社宅で動物は飼えない。それに、転勤の多い辻家では、犬が可哀そうだ」
小学4年生の時、通学路の途中に灰色の犬を飼っているお屋敷があった。毛並みのいい大型犬だった。よく吠えていたけど、なぜか、ぼくには懐くので、毎朝、そこの家に立ち寄り、犬の頭を撫でるのが日課となった。灰色の犬なので、グレイ、と名付けた。犬は長い鎖につながれていて、外には出られない。毎日、ぼくの手を舐めた。ある日、何かをあげたくなって冷蔵庫の中から小さなソーセージを持ちだし、その犬に与えた。そしたら、犬が嬉しそうな顔をしたので、それから暫くぼくは犬にハムとか肉とかを与え続けた。そしたら間もなく、おじさんが出てきて、こら、と叱られてしまう。ぼくはびっくりした。おじさんは「何ば与えとっとか。うちのは血統書付きの犬で、そこらへんの野良じゃなかとぞ。変なもの与えて死んだらどがんすっとか。こんクソガキが」と怒鳴られた。ぼくはひっくり返って、逃げ出してしまったのだ。怖くて、誰にも言えなかった。そして、その道を通らなくなった。

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」



北海道に転向が決まったのはその翌年のことだった。グレイのことが忘れられなくて、福岡を離れる数日前に恐る恐るグレイに会いに行った。すると、その家の庭にグレイはいなかった。犬小屋もなくなっていたし、長い鎖もなかった。もしかしたら、ぼくがソーセージやハムを与えたから死んじゃったのかもしれない、と思って、いっそう恐ろしくなった。涙が流れた。

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」

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滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」

ぼくがシングルファザーになった時、小学生だった息子がぼくのところにやって来て、「パパ、犬を飼いたい。二人で生きるより、もう一人いた方が寂しくないでしょ」と言った。「どうしても犬が飼いたい。大事に育てるから、お願い。ぼくの部屋で飼うからお願い」とせがまれた。毎日のように訴えるので本気だったと思う。あの日のぼくがそこにいた。でも、ぼくは父と同じことを言ってしまうのだ。
「動物は死ぬんだ。外国で動物は飼えない。パパは仕事で日仏を行き来しなきゃならない。お前ひとり育てるので、今は、精一杯なんだ。犬はダメだ」
あの日の父のことを思い出した。転勤が多かったし、家族を養わなければならなかったので、大変だったに違いない。犬を飼うのもタイミング次第なのだ。あの頃の辻家では飼うことが出来なかった。父のせいじゃない。

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」



16歳になった息子はもう「犬を飼いたい」とは言わない。逆に、最近、ぼくが「犬を飼いたい」と言うようになった。
「お前があと二年もしたら成人するだろ。そしたら、パパは犬を飼って、田舎で育てたい。お前のかわりに」
息子はクスクス笑いながら、いいね、と言った。
「なんて名前にするの?」
「もう、決めてるんだ。白くても黒くてもグレイという名前を付ける」
「へー、いい名前だね」
「本当に、そう思ってる?」
息子は笑いながら、首を左右に振ってみせた。

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」

犬はきっとぼくの傍から離れないだろう。犬はきっとぼくが寝ているところにやってきて、頬を舐めるだろう。もしかすると、わきの下に潜り込んでくるかもしれない。そして、一緒に寝てくれるかもしれない。浜辺を一緒に散歩してくれるだろう。ぼくの愚痴を聞いてくれるだろう。ぼくの寂しさを埋めてくれるだろう。ぼくを幸せにしてくれるだろう。ぼくを頼ってくるだろう。そうだ、グレイはきっと最高の番犬になってくれるはずだ。

滞仏日記「犬好きのぼくが、絶対犬を飼わない理由」

※ここに出ている犬たちは、預かった犬、知り合いの犬、近所のぼくに懐いている犬たちである。

自分流×帝京大学