JINSEI STORIES

滞仏日記「今はアメリカに行きたくない」  Posted on 2020/06/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、よその国のことなので、余計なお世話の話しだろうから、アメリカの国内事情のことまでとやかく言いたくないし、それは選挙でアメリカ国民が決めればいいことだ、ということを前提で言わせてもらうなら、アメリカは大好きだけど、残念ながら今のトランプ政権が続く限りぼくはアメリカには行きたくないし、暫く遠ざかることになるだろう、ということである。まず、今のアメリカに行くのが怖い。アメリカに行きたいという気持ちが薄れて実はずいぶんと経つ。若い頃はアメリカの文化で育ち、大きな影響を受けて来たし、アメリカを見て生きてきた時期もあった。かつてニューヨークに住んでいたことがあるので、友だちも多いが、人間や文化は好きなのだけど、ここ数年のアメリカの悪い部分をまざまざと見せつけられてきて、その横暴さに、ちょっと付き合い切れなくなってきた。トランプ氏にはニクソン大統領以上の脅威を感じる。彼が大統領の間は残念だけど、アメリカに行きたいというという気持ちにはなれないのだ。いつか、この気持ちが変わる日が来ることを願っていつつも…。



11月の大統領選までのこの数か月、アメリカでいったい何が起こるのか、明日誰が撃ち殺されるのか、想像するだけでもぞっとする。日本の一部の方々はアメリカが日本を守ってくれると信じているのか、ヤフコメとかでも、トランプ政権を持ちあげているけど、トランプ大統領の眼中に日本や日本人へのシンパシーなどあるとは思えなく、アメリカをこれまでのように持ちあげていると、不意に梯子を外されてしまうだろうという危惧が付きまとう。アメリカが日本を守るという幻想は、20年前のヒット曲のように懐かしい。あの人のこれまでの発言を見ていると、彼が選んだ閣僚たちのように、日本も利用されてポイされるのがオチだろう。そもそも今の内紛状態の米国に他国を守る余裕がどこにあるというのだ。アメリカは日本を守るどころか、彼らが掲げてきた民主主義の根本さえ維持できず、今や米国は分断されてしまった。この分断が意味するところは破壊的に大きい。我々は、アメリカを中心とした世界地図を書き換えないとならないところに来ている。

アメリカ海兵隊員たちに全幅の信頼を得てきたマティス前国防長官がトランプ大統領を「アメリカを分断させた初めての大統領」と猛烈に批判している。彼だけではなく、米軍に関係する89名の高官たちも連盟で強い批判文を出した。前大統領補佐官のジョン・ボルトン氏は暴露本の中で「トランプはホワイトハウスにふさわしくない」と断じ、その指導力を酷評した。また、大統領の姪にあたるマリー・トランプ氏もトランプ大統領の家族に対するネガティブな情報を含む出版を計画中だ。あげれば枚挙にいとまがない。共和党の中からも彼のやり方に反対する者が多く現れ、現在支持率で、民主党のバイデン候補に10ポイント差を付けられている。アメリカの未来はアメリカが決めればいいので、部外者のぼくがとやかく言うことではない。しかし、トランプ大統領が11月まで黙ってこのような状況を放置し続けると思えないことが、恐ろしいのである。大統領の権限は我々が思う以上に強い。コロナと黒人差別デモへの対応の失策が再選への不安材料になっている現時点のトランプ大統領がどのような行動に出るのか、どこと手を組み何をしでかすのか、が不気味で仕方ない。死に物狂いのアメリカが、制御不能になって、しでかす何かが、日本や欧州や世界各国に悪い影響を齎す懸念をぼくは真剣に心配している。

中国では、アメリカのデモ鎮圧に軍隊が投入されたり、銃社会のせいで市民が次々殺されるたび「米国主導の民主主義というのはこういうものだ」というメッセージが出回る。「アメリカのようにならないように団結しよう」と、逆に中国を結束させるメッセージに利用されてしまう。アメリカと長年同盟関係にあった欧州や日本や韓国やオーストラリアなどの政権は戦々恐々としているのが本音だろう。安全保障のバランスが壊れると、この世界がこれまでのような平和を維持出来なくなる。ここまでテンションが張り詰めた世界軍事力というのは平和バランスを構築する幻の杖だ。その杖が折れると途端に世界が不安定化し、あらゆる場所で紛争が勃発する。軍事力のない世界を心の底では願いつつも、現実問題、これだけの核兵器が存在する世界から軍隊が消えることなど到底想像できない。現実を踏まえつつ、世界の新しい在り方を模索しないとならないのが今ならば、その、もっとも大きな懸念はアメリカということになる。もっと言えば、現大統領に民主主義を束ねる器がないことが一番の問題なのだ。



日本はアメリカや中国という大国の顔色を窺わないで、独自の存在感を示す時が来たのではないか。日本は今、世界の新しい枠組みにおける重要なキャスティングボートを握れる立場にある。
コロナウイルスによるパンデミックは内在化していたこのような問題を一気に表面化させる一矢となった。しかし、現実は、ぼくらが考える以上に、もっと恐ろしい事態を招きつつある。トランプ政権を支持する人たちは地球温暖化に反対する若者たちを排除してきたが、今日、驚くべきことに、シベリアの温度が38度を記録したのだ。極寒と言われたシベリアで、である。永久凍土が溶け出したことで、長年永久凍土に閉じ込められていた大昔の病原菌が蘇る可能性が科学者らに指摘されている。実際、トナカイの死体から放出された炭疽に感染したシベリアの子が死んでいる。永久凍土の中には植物、動物の死骸(有機物)による推定1兆7千億トンもの炭素が閉じ込められているという。これが解けて温められると温室効果ガスとなって放出される。ご存じのようにトランプ大統領は17歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリを目の敵にしてきた。目先のことしか考えていない時の金満政治家に、この星の未来をゆだねるのは危険過ぎる。アメリカにいつまでも守ってもらうことを前提にした平和からの脱却の時期であろう。ともかく、今はアメリカへの憧れはシベリアの永久凍土が解ける勢いで失せつつある。

滞仏日記「今はアメリカに行きたくない」 

自分流×帝京大学