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滞仏日記「死にたいと思ってもいいから、生きなさい」 Posted on 2020/07/20 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ある日、不意に誰かがが自らの手でその人生を終わらせたという知らせを聞く時、しかもその人がまだ若く輝いていて、その死の理由も思い当たらない場合、残された多くの人たちの心の中にぽっかりと穴があき、電源が落ちるように不意に力が消えうせたりすることがある。それは、きっと同時代的にこの星の上で生きているという連帯感に穴があくからなのだろう。寂しいを通り越して、得体の知れない心の不安を覚えるのだ、それはつかみどころのない不快なもので、その不快はもちろんその死んだ人に向けられたものじゃなく、生きることのあまりの不条理な状態への混乱が引き連れてくるささくれだつ気持ちに他ならない。



病気や事故ならばまだなんとか仕方ないと自分に言い聞かせることも出来るかもしれないが、そうじゃない場合、何とかできなかったのか、という無力感が人々の心に巣食うことになる。そして、人々はこの死について考えるのだ。このようなコロナ禍の時代になると、これまでの価値観もかわるので、厭世的な気持ちが蔓延しやすい状態にある。ぼくも昨日、今日とやはり何か重たい気もちに引き込まれてしまった。亡くなられた方のことは全く知らなかったのだけど、その人の顔写真を見て、まだものすごく若いのに、と残念でならない気持ちが、行く場所を失って、ぼくの感情を落としていくのだ。きっとこの話題は日本中の人々の心に小さな穴をこじ開けてしまったのに違いない。そして行ったこともない遠い世界に去ったその魂の行方を想像し、人間の儚さについて考察している。長い人生の中で度々起こることだけど、解決策は「明日」に委ねることしかない。そういう時には出来るだけ身近な人を大事にいたわるのがいい。家族とか、友人とかとの関係をぎゅっと強くして、ぽっかりと空いた穴を少しずつ塞ぐのがいい。それが人間の心というものだ。



このような図々しい大人のぼくでも何度か死にたいと思ったことがあった。それはこの年齢になっても不意に起きることがある。でも、そういう時、ぼくは自分に、
「死にたいと思ってもいいから、生きなさい」
と呟くようにしている。そして、ぼくの場合は息子のところに行き、どうだい? と意味もなく質問をする。大丈夫だよ、と息子は答える。でも、もしも、なんかつらいことがあったら、心配をするな、パパがいるからな、と言い残す。パパがいるという言葉は自分がこの星で生きる使命感を意味する。息子は驚くかもしれないけど、そういう意味もない瞬間の励ましは共時的な引力によって紡ぎ出された言葉だったりするから、言いたい時が相手も聞きたいタイミングだったりするもので、なんとなく彼の人生において、自分は守られている、という安心感を生むことに繋がり、それがぼくの側としても、生きる糧になったりするのだ。亡くなられた方のことを思うと胸が痛む。でも、見ず知らずの人だけど、手を合わせ、ごめんね、とつぶやく。一方でそれは、生きなさい、とぽっかりと空いた心の穴へ向けて届ける、今を生きる自分の気持ちなのである。

滞仏日記「死にたいと思ってもいいから、生きなさい」



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