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退屈日記「あの人は優しい、と誰かが呟く瞬間がぼくは好き」 Posted on 2020/09/16 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、人付き合いで悩んでいて死にそうです、という若い日本の友人から連絡を受けた。
コツコツと生きている真面目な30代の男子だが、ちょっと真面目過ぎるところがある。
「疲れました。もうダメです」というラインメッセージだったので、早朝だったけど、「優し過ぎるからだよ」と返した。
「そうでしょうか」と暫くすると戻ってきた。
「そうですよ」と返した。



君が苦しんでいるのは君が自分の周りにいる人みんなに優しさで接しようとするからだ。
もちろん、それはとってもいいことなんだけどね、果たして自分が壊れてまで優しくしていていいのか? 
問題はそこだよ。
無理する優しさは本当の優しさではなくて、自分がそう見えたいという願望が作ったイメージなのかも、と考えてみたらどうだ?
考えてみてほしい、何十億という人間が犇めくこの星で、あらゆる人に対して君は平等に優しく接し続けようとするからきつくなる。
その優しさは無理することで生まれた優しさなんだとまず考えてほしい。
こういうと「冷たい人だ、辻さんは」という人もいるんだけど、しょうがない。
自分が崩壊してまで優しくする必要がぼくら普通の人間にあるのか? 



仏様のようなことが普通の人間に出来るわけがない。
出来るだけ平等に接したいと日々思うことは大事だけど、現実はそうはいかない。
嫌な奴も大勢いる。君を侮辱する人間もいる。
そこまでじゃないにしても、君に敬意を払わない人間なんてごまんといる。
横柄で自分中心主義の人間ばかりのこの世界で、全部の人間に同等の優しさを配ろうとするから苦しくなる。
冷たい人間になれ、とススメているわけじゃない。
その優しさを偽物とは言わないけど、無理しないとできない優しさは、ギターも弾けないのにステージ立つような無謀だ。
もうやめたらいい。肩の力を抜いたらいい。
君のことを心から心配してくれる人にそのやさしさを返せばいい。
通りすがりでも、優しくしないといけない、と思う人がいたら、その気持ちのいくばくか、全部じゃなく一部を向けてみたらいい。



ぼくの知り合いの高僧は死にかけるような大修行中に干からびたミミズに残り少ない水を与えて助けた。
この話しを彼がされた時、ぼくはこの人のことを大好きになったが、しかし、それは一般的には間違えた行動で、それは優しさじゃないし、人に言うべきことじゃない、と思った。
いつか、その偉いお坊さんと再会する時、ぼくははっきりと指摘するだろう。
それはあなたの徳だが、それをみんなに言っちゃいけない。
あなたの中にしまっておいてください。
あなたは高僧だから出来たことで、現実世界でもがいている人には到底出来ることじゃないのです、と。
批判をされても、ぼくは何度でも言うだろう。人間は強くない。
だから、人間なのである。
そのミミズを助けることは美徳かもしれない。
悪人を更生させる社会であってほしい。
でも、それは超越する強さがある人間がやれることで、今苦しいあなたが、高僧のレベルで行動すればいいというものではない。
慈しみは大事だけど、自分を殺すな。
楽になること、自分を知ること。
そして、自分の周りにいる、自分を心配してくれる人にまずその残り少ない優しさを返すべきなのだ。
ぼくはそれが今を生きるということだと思う。



世界中の人に愛されたいのであれば、人間では無理というものだ。
もしかしたら、世界に何人かは全ての人に愛される人がいるかもしれないけど、その人の心の中を誰も知らない。
ぼくは知りたくもない。辻さんは冷たい嫌なやつだ、で結構である。
自分が優しさを向ける時には、人知れず向けたい。誰も見てないところで本当の自分が出ればいいし、天は見ている。
こっそり、やれる範囲で。
無理してみんなに好かれようとしている限り、君はずっと苦しい人生を生き続けることになる。
人に優しく、というのは嘘じゃない。
でも、出来る範囲でいいのだ。
そうやってみんなが出来る範囲で少しずつ優しくすることで、世界は緑に包まれていくのだとぼくは思っている。

退屈日記「あの人は優しい、と誰かが呟く瞬間がぼくは好き」

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