JINSEI STORIES

滞仏日記「引っ越したのに、心が引っ越せない。切ない一日」 Posted on 2020/09/25 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、目が覚めたら、いつものベッドじゃなくて、見慣れない天井にびっくりしてしまった。
ドアをノックする音が聞こえたので、はい、と返事をすると、
「学校行ってくるよ」
と息子が大きな声で言った。
そうだ、引っ越したのだ。慌てて思い出し、部屋を飛び出し、息子を見送ることに。
「どうだった? 寝れた?」
「なんか、あまり寝れなかった。ベッドが広くていいんだけど、あっちの家にちゃちゃを忘れてきたから、帰りに寄ってとってくる」
ちゃちゃというのは息子が生まれた時に買ったぬいぐるみ。彼も16歳になる。フランスの子供たちはぬいぐるみと共に生き、成長し、大人になっていく。中には大人になってもぬいぐるみを傍に置き続けている大人もいる。日本人からするとちょっと奇妙な感じを覚えるが、それがフランスのスタイルなのである。
「あ、昼間は向こうで仕事をするし、片付けもあるし、ついでにあっちで料理をするから、ちゃちゃはパパがピックアップしてくる」
「え? 向こうで料理するの?」
「こっちのキッチンがガスじゃなく電気だから使い勝手がよくないんだよ。レシピ連載の締め切りなんで、今日はあっちで煮込みスープを作る。出来たら、鍋ごと車で運ぶよ」
息子が苦笑した。
「引っ越した意味がない」
「暫くは仕方ないね」
「やれやれ」
息子はそう言い残して、出て行った。
「ちゃちゃのことは任せろ!」
ぼくは大きな声で息子の背中に向かって叫んだ。

午前中、新しいアパルトマンの大家とメールでやり取りをした。
SNSなどに家の写真をアップしないでほしい、と釘をさされた。笑。
とりあえず、キッチンと仲良くやらないとならない。
IHは便利だけど、火加減が難しい。新しいキッチンのIHコンロは二つしかないので、同時進行で複数の料理が出来ない。
旧アパルトマンは4つのガスコンロをフル稼働でいつも料理をしてきた。
うーむ。



トランクから衣服などを引っ張り出し、クローゼットに仕舞ったりしてから、昼前、革ジャンを掴んで、外出した。
前のカルチエ(地区)とはくらべものにならないくらいハイカラな地区である。
パリに移り住んだ当初のアパルトマンが近かったので、ちょっと様子を見に行った。
19年前、ぼくは若い日本人夫婦の家に転がり込んだ。写真家とスタイリストをやっているかっこいいカップルだった。
まだ、息子は存在していなかった。ぼくは40歳を少し超えたところで、結構、ぶりぶりだったかな。向こう見ずで、エネルギッシュだった。
今と何が違うのだろう。ずいぶんと丸くなったかもしれない。

滞仏日記「引っ越したのに、心が引っ越せない。切ない一日」



バス通りまで出ると、当時、よく通っていたカフェがまだあった。
パリのいいところは、あまり日本みたいに店舗の入れ替わりが早くないこと。
オーナーは変わっていくのだけど、店自体は昔の名前で残っている。
今まで住んでいたカルチエは静かな住宅地、今度のところは左岸の文化中心地のひとつで賑やかだ。
どの店に入るか、ずいぶんと悩んだ挙句、当時、編集者と打ち合わせをよくやった思い出のカフェに陣取ることになった。
もちろん、当時のギャルソンは一人もいない。経営者もきっと変わっている。
新天地で一番最初に入ったカフェとなった。期待が高まる。
ロマンとかクリストフのところとは雰囲気が違う。しかし、モダンで、カッコ良すぎて、なんとなく居心地がよくない。
とりあえず、オーソドックに、チキン・ピカタを注文した。値段はクリストフの店と変わらない。一番下にパイ、上にグリルされた野菜、そしてチキン、その上に野菜とチーズというミルフィユ的なデコレーションが凄かった。
そして、美味しい! 
クリストフの店よりも間違いなく美味しい。食べ物に口うるさいぼくだけど、パリの底力みたいなものを見せつけられて、舌を巻いてしまった。
これが、ピカタかぁ、やるなぁ!

滞仏日記「引っ越したのに、心が引っ越せない。切ない一日」



旅行者のような新鮮な気分なのだけど、やっぱり、ちょっと寂しい。
顔馴染みの仲間たちがいないからであろう。旧カルチエだと、通りを歩く度にアドリアンだとか、ピエールとか、パトリックに、やあ、元気か、と声をかけられる。
ロックダウンの最中、励まし合って共に生きた地元の仲間たちがここにはいない。
ま、新しい知り合いが増えていくのだろうけど、その分、時間もかかるし、薄まるような気がした。
引っ越した初日なのに、ぼくは逃げ帰るように旧宅を目指した。
家が近づいて来ると、顔見知りたち、肉屋のロジェとか、バーマンのポール、クリーニング店のジョルジュ、などが出現し、手を振ってくれた。
この安心感。
旧宅に着き、ドアを開けて中に入ると、何か寂しげな気配が漂っている。
バタバタと引っ越したので、夜逃げをしたみたいに散らかっている。
玄関の天井は水漏れのせいで大きな穴があいたままだ。子供部屋を覗くと、ギターアンプの上にちゃちゃがいた。ああ、ごめん、ごめん、寂しかったよね?

滞仏日記「引っ越したのに、心が引っ越せない。切ない一日」



家中の窓をあけ、空気を入れ替え、ぼくは仕事部屋に籠り、仕事をした。
大型のパソコンは旧宅にあり、小型のパソコンは日記用として新居に設置、二重生活のはじまりである。
少しずつ、ここから荷物を運び出し、向こうに運ぶことになるのだけど、気が重いなぁ。
会社勤めをしたことがないぼくだけど、これはある意味、会社勤めのようなものだ、と割り切るしかなかった。
さて、今日は料理雑誌、dancyuのためにグーラッシュ、ハンガリー風の煮込み料理を作るのだけど、…。よし、気合を入れて頑張ろう。この生活にも次第になれるはずだから。

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