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滞日本日記「新宿でお笑いを目指す青年に、ぼくどうしたらいいすか、と質問された」 Posted on 2020/10/25 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、地下の穴倉のような場所で、ぼくを待ち受けてる連中がいた。
その中の一人、お笑い芸人を目ざしているのです、という若い男性がぼくにね「今、25歳なのですけど、辻さんは25の時、どうでしたか。ぼくはどうしたらいいですか」と訊いてきた。
「あのね、君の前で道が二つに分かれてるとするでしょ」
ぼくはそんな風に、言葉を返した。
「・・・・」
「その時、右に行くべきか左に曲がるべきか君は悩むんだよね、たぶん、そうじゃない? ならばぜったい自分が楽しくなれる道を選んで下さい。苦しんで進む成功の近道は選ばないで、多少遠回りになっても、楽しいと思える道が大事ですよ」
25歳の青年は小さく頷いた。
「ぼく、バンドをやっていたんだけどね、ステージに上がる時、いつも一番後ろの席の人に向けて歌っていたんだよ。なんでだと思う?」
「・・・」
「一番後ろの人って冷静だからその人がこぶしを振り上げてくれたら今日の自分は輝いている証拠だって、とそう言い聞かせてた。でね、お笑いもそうだと思うけど、誰も君のことを知らないどこかのスーパーで営業をしないとならない時なんかに、周りはいつものファンじゃないからさ、腕組みしてるサラリーマンさんとか居眠りしてるおじいさんとかいるわけでしょ、でもその人を笑わせないとならない。音楽も一緒で、見知らぬ土地の舞台に上がる時って、いつも不安があった。そういう時にバンドメンバーにぼくはよく言った言葉があるんだよね」
「なんですか?」



「その、自分が楽しくならないもので人が感動するわけないじゃんって、いつもみんなに、というのか、たぶん、自分に言い聞かせてたんだよね。お客さんをノせようとか思う前に、自分がノってないと、漫才だろうとロックっだろうと盛り上がるわきゃないよねって。アマでもプロも関係ない。ぼくはそれが人生の基本だと思ってます」
25歳の青年、なんかいい顔をしていたな。ぼくもちょっと嬉しくなった。

その隣にいた青年もやっぱ芸人を目指している子みたいで、自分、才能があるかどうかわからないっていうか、なんかどうしていいかわからないっていうか・・・、とそういう風な質問をぶつけてきた。その子がいろいろと抱えながら人を笑わせる仕事を目指しているんだな、ってのは伝わった。才能ってね、何をもって才能というのか分からないから、ぼくはこう答えてあげた。
「ぼくはね、まだつじじんせいとかつじひとなりじゃなかった時にね、19歳とか、そんな時代のことだけど、まだ世界は俺のこと発見してないじゃん、って毎日豪徳寺とか祖師ヶ谷大蔵の駅前で、或いは下北とか西新新宿の路上で、自分に言い聞かせていたんだよね」
「はー」
「いつだよ、世界が俺を発見するのは? 誰だよ、俺を発見するのはって。俺はここにいるぜって、通り過ぎていく人をめっちゃ睨みつけていた。ちょっと危なかったけど、そんくらいでいいかもね」
その子も笑った。ぼくも笑っといた。するとその隣の子が、
「父と会話がないんですよ。病気で、だから元気なうちにたくさん話したいんですけど、そのどうやったら会話出来ますかね」
まっさきに会話のない寡黙な息子のことを思い出した。次にいつも怖かった父親のことを思い出した。

滞日本日記「新宿でお笑いを目指す青年に、ぼくどうしたらいいすか、と質問された」

※23とか24歳の頃だったと思う。新宿で。
foto by Mariko Miura



「君がぼくの息子だったら、毎日、家ン中が賑やかになり過ぎるから、今の親子関係でちょうどよくね?」
青年がくすっと笑った。そこにいた連中もくすっと噴き出していた。
「うちの子はおはようって言っても返事ないし、君のパパもそうなんだから、バランスがいいってことだね。もし、お父さんと会話をしたいなら、君が頑張ってる姿を見せることが一番彼を喜ばせるんじゃない。今、病気なら、お父さんに自分が輝いている芸人の姿見せられるといいんじゃない。君の芸で、お父さんを笑わせられたらいいね」
これは事実で、親子ってあんまりハッピーにならないくらいが現実を理解しあうのに、ちょうどいいかな、とぼくは思ってる。
寡黙な息子だから愛が嘘くさくならないのだと思う。
そういうようなことを言ったら、青年、頷いていた。



別の人が、ちょっと年齢が上の人だったけど、たぶん、やっぱりお笑いを目指している人みたいで、異業種の仕事を依頼されてどうしていいか悩んでるみたいな、芸の道を突き進む悩みみたいなこと、について・・・。
やっぱり、とりとめもない悩みだったけど、言いたいことは伝わったよ。
「あのさ、ぼく思うんだけどね、二つ仕事を持つのも悪くないよ。八百屋の稼業を真剣にやりながら、お笑いで人を笑わせるとか、いいと思う。普段は会社員をやっているけど、時々、お笑いで人を和ませるとか、いいと思う。で、お笑いが忙しくなって本業に影響を及ぼしても、仕事はやめないってのがもっといいと思う。ぼくね、作家とロックミュージシャンとか、他にもいろいろとやってるけど、一芸に秀でるのはかっこいんだけど、ぼくにはむかなかったんだ。で、作家だけやってると文学の奴隷になるじゃん。ロックだけやってる人はギターの技術の話ししかしないんでツまんないだよ。わかる? 芸人目指している子が集まってネタの作り方とかボケのタイミングばかり気にしている人の芸って硬くて笑えなくない? 自然じゃないもんね。芸人こそさ、幅広く世界を知っていて、その日常から繰り出すパンチが大事じゃん。芸人の世界で常に順風満帆ってわきゃないから、もう一つ職業持ってると、きついとき、逃げられるし、ぜんぜん逃げていいし、何より独自でいられるんじゃないか、と思うんだよね。ぼくは文壇にかかわったことないし、ロック村の外で生きてきた。組織って、超苦手なんだよ。んで、どこにも属さないで長い目で勝負した方がいいってこともあるしね。長い目で人間生きてるわけだし、その短い人生の中でのことだから」
すると目の前にいたお坊さんの恰好をした人が、 
「一つ、芸をやってもいいですか?」

滞日本日記「新宿でお笑いを目指す青年に、ぼくどうしたらいいすか、と質問された」

と言って、ぼくが昔、オールナイトニッポンの第二部の冒頭で絶叫していた「愛を、愛を、愛を、オールナイトニッポン」みたいな台詞をそこにいる人たちの前で、絶叫しはじめて、爆笑となった。なんでも、臨済宗のちゃんとしたお坊さんで午前中は法事もやってきたのだとか。笑えた。真面目に生きている人って、笑わせる天才だと思う。
「芸人めざしてるんですか?」
「ええ、笑いって大事ですから」



晴れ渡る日本晴れの東京であった。
光りには希望がある。
お笑い芸人を目指す人たちの集まりから解放されて新宿の街に出た。
長かった自主隔離の後遺症のようなものが少し出ているのか、ちょっと足元がおぼつかない。
今年は、3,4,5月とパリでロックダウンを経験し、今月は東京で個人的隔離を経験し、11月頭にパリに戻るのだけど、そこは夜間外出禁止令下だし、噂では変則的なロックダウンに突入するのじゃないか、と知り合いのフランス政府関係者からメッセージが届いて、そうなるとクリスマスもなし、年内は家から出られない最悪の状態になって、2020年の半分ほど隔離生活をおくる公算が高い。
息子がそういう世界で前向きに生きている。
ぼくのようなダメオヤジでも彼の傍にいて彼を支えなければならない。
これはぼくの役目だ。
お笑いを目指す子にハッパかけたように、ぼくはぼく自身にハッパをかける必要がある。
光りを見つめる目に力が籠った。
まだ、世界は俺を発見していないじゃん、と呟いてみた。

滞日本日記「新宿でお笑いを目指す青年に、ぼくどうしたらいいすか、と質問された」



生きるのはなぜこんなにも困難を伴うのであろう。
自分の生き方に多少の落ち度があるのもわかるけど、いついかなる時も前向きで頑張らなきゃと自分を鼓舞して頑張ってきたというのに、特に意味もなく負けそうになることがある。
なぜ、生きているとこんなにも面倒くさいことが次から次にやってくるのか、とため息がこぼれる。
いいこともないと人間は生きていけない。
その「いいこと」が何か、見つけるのが困難になってきた。
人間が増えすぎたということもあるだろうし、世の中が複雑になってしまったせいもあるだろう。
気がつけば、世界は思考する動物である人間にとってはかなりパンク気味なのだ。
そうだ、ぼくもみんなもパンクしそうなのだ。ちょっと休んで深呼吸だ!

お笑い芸人を目指すダイキマンというアフロヘアの青年が、辻さんは食べ物何が好きですか、と別れ際訊いてきた。彼はカレーうどんが好きなのだ、と言った。和んだ。
ぼくは宿に戻る途中、お腹が空いて、好物の焼き鳥を食べに行きつけの店に顔を出すと、店は半分暖簾が下がっていた。馴染みの店員さんが一人でやっていて、
「あ、辻さん! お帰りなさい。今はちょっとコロナで土曜日は営業してないんです。でも、弁当だけデリバリーやってます」
と言った。
「じゃあ、いつもの焼き鳥弁当一つ頂戴な」
「ありがとうございまっす!」
彼も真面目ないい青年なのだ。ここの店の子たち、みんなすがすがしい。コロナに負けないでほしい、と思った。ぼくらは出来る限りの希望をかき集めて、この殺伐とした時代を支えあい、乗り切らないとならない。
生き切る、ということがまずは今のぼくの目標なのである。いただきます。

滞日本日記「新宿でお笑いを目指す青年に、ぼくどうしたらいいすか、と質問された」

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