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滞仏日記「心配してもはじまらない、が正しい理由」 Posted on 2019/04/11 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、東京は真冬並みの寒さになり、東京の郊外では雪がちらついたりした。あまりに寒くて風邪を引きそうになる。パリの大家から留守中の家で水漏れがあったとの連絡、バレーの試合中に息子が指を切ったので応急処置をしたと指導教師から連絡、があった。息子を預けていたところのお母さんが体調を崩されたり、駐車場から動かしてないのに駐車違反の紙が届いたり、他にもいろいろとあって、どうして僕が東京にいる時を狙ってこうも面倒ばかり起こるのか、と苦笑が起きる。考えてもしょうがないので、心配しながらも、パリを守ってくれている人たちに「何もできないのでなんとかうまくやっといてください」と連絡をするしか僕に出来ることはなかった。息子に関しては、様子を見てもらい、悪化しそうなら病院に連れて行って、とお願いした。心配は尽きない。心配は尽きないが、身体は一つなので、冷たいと思われるのも承知で、考えても今はどうしようもないのだから、心配を遮断することにした。

いろいろな心配事があるけれど、心配というものは必ず未来のことを案じるところからはじまる。でも、それは先のことばかりで、どうなるかわからないからこそ心配になるのだ。で、そういう先が見えない心配というのは次から次ぎにいろいろな不安を巻き込んでさらに膨らんで大きくなっていく。じゃあ、どうやって僕はそれをあしらっているのかというと、今この瞬間にこそ集中し、将来の心配を蹴散らすのだ。心配を増やすと心は病んで、当然のように心配性になる。僕は昔、心配性だった。でも、心配しても始まらないことばかりなのだ。なぜならそれは先のことで、だいたいがその通りにはならないばかりか、心配が心配を呼んで僕の人生を暗くさせていく。「心配してもはじまらない」という言葉はまさにこの状況を端的に表している。何も起こらないかもしれないじゃないか、もっといい結果が来るかもしれないじゃないか、誰にも気づかれないかもしれないじゃないか、全然関係なかったりするかもしれないじゃないか、君のことを責める人は出てこないかもしれないじゃないか・・・。なのに、みんな悪い方へ悪い方へと考えてしまって、心配性になる。

今を精一杯、必死に生きていると将来のことまで気が回らなくなる。ということはその分心配が減るということだ。何かちょっとでも心配な要素を感じたら、僕は今抱えている仕事や家事や人生に没頭することにしている。で、気が付くと、それは過去になっていたりして、つまり、杞憂だったとわかったりする。パリで起きているいろいろな出来事も今の僕には叫んでも何をしてもどうすることもできないものばかりだ。息子の件は、今息子の面倒を見てくれているアデルに「何かあったらドクターのところへ連れて行ってね」と連絡するしかない。

今、ほら、たった今! 大家からメールが届いた。「あなたの家の水漏れの原因は上の階の人の食洗器の故障と分かったので、あとは保険屋がすべてやるから大丈夫よ」と書かれてあった。この人とは会ったことがないが、先日撮影した桜の写真を添付して返信した。
「シルヴィア、ありがとう。僕は今東京で、実はどうすることもできないほどに忙しくしている。君がいろいろとやってくれたお陰で安心出来た。感謝します。先週、皇居の傍で見上げた美しい夜桜の写真を添付しておきますね。東京の春の空気を感じてもらえたら・・・。ひとなり」
 

滞仏日記「心配してもはじまらない、が正しい理由」

そしたら、今、こういうメールが戻って来た。

Oh c’est très gentil à vous.
Je ne connais pas du tout le japon. Cela semble très très jolie.
Bien à vous
Sylvia

そして、この下のピンク色の写真は今日、六本木の裏通りで見つけたピンク色の桜である。こんなに寒い東京でも歯を食いしばって花を咲かせている桜、偉いなぁ、と僕は勇気づけられた。だからね、心配なんて蹴散らしちゃえばいいのだ。
 

滞仏日記「心配してもはじまらない、が正しい理由」