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滞仏日記「雨の日のパリ・モノクローム」 Posted on 2019/05/11 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、人間に疲れるということはある。みんなバイタリティあるから、負けまいとして頑張っちゃうと、人あたりするというのか、くたびれる。みんなポジティブで前向きだから、自分もそうありたい時にはいいのだけど、連日100%の精神力では生きてはいけないから、辛い時には無理せず、誰にも会わないようにして、自分の世界に閉じこもる。今日はそういう日だった。それは正直、他人に合わせる必要もないということだ。人間は他人や社会や周囲に気を遣い過ぎる。そのために自分の人生を削っている。そこまでする必要があるだろうか。僕は自分が周囲に媚びすぎてると思う時、やめとけ、と自分に向けて呟く。

社会というのは人間の塊だから疲れるのは当たり前なのだ。今日は雨音を聞いて過ごした。人疲れした僕には心地よかった。朝からずっと雨が降っている。それも結構強い雨で、だから雨の音がパリを包み込んでいる。晴れていると外に出ないと損だと思うから疲れるけど、ここまで雨だと一切諦めきれる。雨には諦める力が備わっている。

パリは一年を通してどんよりとしている日が多い。ここまで激しい雨というのは滅多にないけど、僕は雨の日のパリも嫌いじゃない。石壁とか石畳みの路面とかが雨のせいでぐんと沈みこむと、途端に世界がモノクロームに変わる。タイムマシーンに乗って60年代辺りに戻った気持ちになる。すると口をついて出てくるメロディもビートルズの「ラブミードゥ」だったり、ストーンズの「黒く塗れ」だったり、懐かしい青年期のヒットソングになる。違う時代に迷い込んだのじゃないか、と思いながらカフェに入ると、いつものギャルソンじゃなくて見覚えのない老紳士が給仕をしていたりする。テラス席に座って、路面を打つ雨を見つめる。黒い車がその上を過っていく。ハイヒールを履いた女性の足、黒い鳩、マシンガンを担いだ兵士たちが見える。
「何にします?」
給仕が注文を取りに来た。
「パスティスかな」
「ソーダで割ります?」
「水がいい」
昔、アブサンには幻覚作用を引き起こすとされるニガヨモギが使われていて、多くの中毒者を出した時代があり、一時期発売禁止になっていた。それで代替品として作られたのがパスティス(ぺルノーやリカールなどが有名)。甘口でアニスの強烈な風味が特徴。水をいれると白く濁るという不思議な酒で、飲みやすいし、アニスの香りが独特なハーブ感を連れてきて面白い。僕の中では雨の日になると飲みたくなる一杯だ。

雨音ってどこで聞いたかでずいぶん違う。思い出すのはバリ島にはじめて遊びに行った時に、ウブドで雨に降られ動けなくなった時のこと。打ち付ける雨が凄かった。道が雨の飛沫で見えなくなるほどだった。髪の毛もTシャツもびしょぬれ。なのに三人の若者が乗ったバイクがその豪雨の中を猛スピードで駆け抜けていく。一番後ろに乗っていた少女と目が合って、その子のキレイな瞳が僕の記憶に焼き付いた。ここはパリなのに、不思議だけど、30年以上も前のバリ島のあの少女の目を思い出してしまうのだ。
 

滞仏日記「雨の日のパリ・モノクローム」