JINSEI STORIES

滞仏日記「天寿とは何か」 Posted on 2019/05/22 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、キャピトルホテルへ向かう途中、日枝神社の石段を登りながら、ふと思った。僕は死ぬためにこうやって毎日生きているんだ、と。つまり人間は誰もが死へ向かって階段を登っているのである。成功とか失敗というのはある一時期の通過点に過ぎず、その興奮や後悔はその時のものだが、死はつねに僕らの行く手にあり続ける、人間である以上。階段を登るその一歩一歩が生きるということであり、だから僕はどうやって死ぬのかという人生を今登っているのだ。生き切った時に、素晴らしい人生だった。すべてを受け入れ許すことが出来る、と思えたなら、思えるなら、その時に人間は自分の一生と折り合えるような気がする。納得し、少し満足し、まあまあだった、と安堵できるのであればそれを全うと呼んでもいいだろう。僕は立ち止まり、日枝神社の石段の上を見上げた。

時間というのは不可逆的に進んでいるけれど、その後戻りが出来ないという流れに生物は逆らうことができないし、それが生きるということだろう。僕は日枝神社の石段の中ほどで一度登って来た道をふり返ってみた。遠くの青空をふり返ってみた。記憶の断片がフラッシュして、あの日、ヴェネチアの運河を橋の上から眺めていた自分の視線とぶつかった。それはたぶん僕が35才の時の記憶じゃないか、と思う。僕は生きる意欲に満ち溢れていたけれど、やはりなぜ生きるのだろうと自問してもいた。59才になった今の自分はあの頃よりもこの世界と折り合いがついてきている気がする。男性客を一人乗せたゴンドラが橋の下から出現した。その男が振り返った。奇妙なことに僕を見上げる僕であった。その僕は老人で、目がしょぼんでいて、どことは言えない遥か彼方の空を見上げていたのだ。僕は振り返った。日枝神社の鳥居が見えた。

死ぬために生きるのだ、と僕は石段を登りながら思った。この「死ぬために生きる」という考え方が僕にはしっくりとくる。生きるために死ぬことは滅多にない。だいたいの人間が死ぬためにこそ日々を生きているのである。人によって寿命は様々だけれど、一瞬の中にも永遠がある。時間の尺度というものは実際にはあてにならない。長いか短いかは個体差に、人生差による。だから僕は腕時計をしない。どう生きるかでそもそも時間の本来の幅や深さは違ってくる。人間は死ぬ時に、よく生きたなぁ、感謝しかないなぁ、と思えたらそれが幸いじゃないだろうか。どれほどの億万長者でもその銀行に眠る莫大な預金を持って死ねる人は存在しない。成功も栄華も持続するものじゃないということだ。同時に後悔や苦しみは捨て去ることが出来る。未来をよくすると、過去もひっぱりあげられてよくなる。だから僕は笑顔で石段を登っていく。苦しいことや辛いことは流れ去る時間の仕業だと思って、気にせずに登り続けたらよい。一喜一憂はしてもよいが、そこに振り回される必要はない。大事なことは石段を一段上がるその時の自分の意である。一番上に辿り着いた時に、よく登った、つまり、よく生きたと納得できるようにこの日々と向き合う、その積み重ねの先に一生の全うがある。もしも僕の一生が天寿であるならば、僕は与えられたこの時間にこそ心から浸りたい。
 

滞仏日記「天寿とは何か」