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滞仏日記「朝いちばんに僕が買いに行く世界一のバケットは人生の杖」 Posted on 2019/06/04 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、早起きをして近所のパン屋さんにバゲット、正確にはバゲット・トラディション(伝統的バケット)を買いに行くのが僕の日課だ。朝の七時にはどこのパン屋も開店している。焼きたての美味しいパンを買うならばこの朝の七時を狙うのがいい。顔馴染みの店員さんと二言三言言葉を交わし、バゲットを掴んで帰る道すがら、僕は今日を精一杯生きたろうと自分に誓う。息子にサンドイッチを拵えて食べさせ、彼を学校に送り出すとまもなく8時。コーヒーを淹れて、バケットを頬張る。美味い!

日本のバゲットのレベルも向上したとは思うが、それでもフランスのバゲットのレベルには到底及ばない。本場、フランスのバゲットを口にしたときの感動は今日現在まで持続し続けているし、ますますその素晴らしさを実感する毎日だ。炊き立ての美味しい国産米を口に入れた瞬間のあの感じと同質なのである。

不思議なのは日本だとバタールというフランスパンばかり見かけるけれど、パリではほとんど見かけない。ないことはないけど、日本のものとはどうも違う。なぜ、日本はバタールなのだろう?フランスでは一番目立つ場所を占有しているのはバゲットかトラディションだ。トラディションは表面がカリカリで中がもちもち。僕は必ずトラディションを選ぶ。子供や年配の人たちには噛みやすい普通のバケットがお勧めである。他に短くてカリカリ感の強いフィッセルも有名で、ベーコン味とかセサミ味とか、こちらはいろいろと工夫が凝らされており、ワインのつまみに最適だ。フランス人も食パン(パン・ド・ミー)は食べるけど、日本のような柔らかい食パンは存在しない。やはり食パンは日本が世界一だと思う。

行列を好まないフランス人が並んでも買いたいのが焼きたてのバゲットである。焼き上がりの時間が決まっているので、夕食前の5時過ぎにはどこのパン屋もずらりと人が並んでいる。焼きたてをとんがり部分から齧るのが僕は好きだ。香ばしく、カリカリで、温かく、とにかく申し分がない。(ちなみに、焼きたてのバゲットを砂糖醤油につけて食べると、まるで日本のお餅のような味わいになるのだけど、信じてもらえるだろうか?)そのバゲットをまるで剣のようにリュックに刺して自転車で帰る人や、杖のように掴んで歩くご老人など、フランス人にとってバゲットは人生の拠り所のようなものかもしれない。

小学生の頃、僕は福岡の平和町に住んでいた。平尾霊園の入り口にパン屋があり、ここのパンが本当に美味しかった。もう半世紀も前の話になるが、僕は毎日自転車で家族のために買いに走った。このパン屋でしか買えないリーフパイが最高だった。二枚のリーフパイの間にクリームが挟んであった。サクッとした歯ごたえ、そしてクリームの甘い広がり。あのパン屋さんはまだあるのだろうか・・・。あれから半世紀が経ったが、僕はいまだに家族のために早起きをしてパンを買いに行く。バゲットを人生の杖のように掴んで、僕はパリの路地を歩く。何か落ち着くのだ。バゲットを掴んで歩くだけで、僕はウキウキする。それが僕の朝いちばんの仕事なのである。

滞仏日記「朝いちばんに僕が買いに行く世界一のバケットは人生の杖」