JINSEI STORIES

滞仏日記「紛失していた携帯が戻って来て、僕はまた泣いた」 Posted on 2019/07/18 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、紛失した携帯の中には幼い息子が歌う声や、一生懸命語った声が収録されていた。それはいつか時間が出来た時にパソコンに移そうと思ってそのままになっていたデータ、作業がちょっと難しくて後回しになっていたものであった。写真はある程度HDに逃がしていたがこの思い出の声シリーズはそのままになっていたのだ。不覚にも・・・。

朝、7時半にフロントに電話をかけて、リネン工場で調べてもらいましたか、と伝えたが、まだ工場があいてない、ということであった。朝一番で確認をするということでしたけど、何時くらいになりますか、と問うと、昼くらいまでには、と丁寧に戻って来たので、僕は昼は少し遅いと思い、支配人と直接お話がしたい、と申し出た。冷静に言ったと思う。しばらくすると支配人ではなく責任者という方から電話があり、僕は昨夜話したことと同じ内容をもう一度お伝えした。もし、清掃の人がシーツと一緒に片づけてしまったなら洗濯される前に救出してほしい、と懇願した。その方は責任感溢れる感じで対応してくださった。どうしようもない時というのはある。騒いでも、ここはホテルに任せるしかない。まもなくして支配人という方から電話があったので、もう一度、すぐに工場で探してほしい、と再度お伝えした。銀行のデータやこれまでに作曲した曲のデータ(この数年の間に作曲したイメージやフレーズがストックされている)、それから息子との思い出の写真や録音物が入っているのです、とやや真剣にお伝えした。わかりました、すぐに工場に派遣をして調べます、とおっしゃってくださった。読売新聞のインタビューが入っていた。僕は正直、力が出なかったけれど、顔を出し、インタビューを受けた。映画のプロデューサーなどがいたが、僕は冷静にふるまった、と思う。怒ってもしょうがないことだ。でも、思い出が・・・。心が落ち着かない。休みたい。撮影明けなので、疲れた。こういう時に誰か、誰でもいいから、今日は休んで、と言ってくれる人がいたらな、と切実に思った。部屋をもう一度チェックさせてほしい、とホテル側が言うので僕は許可した。部屋での捜索の際中、僕はロビーで待つことになる。人間は不安定になると悪いことばかり考え、悪い気が回るので、なるべく考えないようにしていた。馴染みのコンシェルジュの方が心配そうに僕を見ていた。スタッフの方々はこの状況を皆さん知っているようだ。対応が優しい。いいホテルなのだと思う。

それでも最悪の事態に備え、銀行の送金システムを止める手続きをしていると、支配人がやって来て、部屋にはやはりありませんでした、と言われた。二人のスタッフをリネン工場に派遣したとのことだった。10時くらいだったと思う。朝一で二人を派遣してほしかった。でも、じたばたしても仕方がないので、気晴らしと親孝行を兼ねて、僕は母さんと息子をホテルに呼んで食事をした。本当は息子にTシャツを買ってあげる約束をしていたのだ。でも、今日はその約束を守れそういない。もちろん、息子は文句も言わなかった。食事が終わり、12時を過ぎた頃、支配人がやって来て、結局、工場にはありませんでした、と言われた。じゃあ、どこに???

僕は最後の手段、「アイホンを探せ」機能の消去モードを押す時が来たことを悟った。(アイホンの電源は切れていて、地図上には出てこない)でも、これをやると全てのデータが消える。息子の6歳の時の歌声が消える。離婚の後の苦しい時期に僕を励ましてくれた10歳の時の天使の声が消える。でも、銀行やもろもろのデータが外に出るのを防ぐ必要もあった。何度かアプリを開いたけれど、指先は止まり動かない。結局、僕は消去モードを押せなかった。やっぱり、押せない。押せるわけがない・・・。

銀行などとやりとりをするのに、自宅に向かう必要があり、家族で戻った。タクシーを降りて、母さんの薬を薬局で買っていると、支配人さんから電話があった。見つかりました!思わぬメッセージであった。何か聞き間違えたかな、と思うような声でもあった。ふっと目の前が開けたような気分になる。
「どこで? どこにありましたか?」
「やはりリネン工場です」
ああ、と僕は思わず安堵の声を張り上げてしまう。思い出が帰ってくる。ところが、すぐに支配人から再び電話が入り、
「残念なお知らせが、その、携帯はすでにマシンの中に入ってしまい、破損が激しいんです」
と。飛び上がろうとしていたのに、地面にたたきつけられるような痛みを感じた。真っ白になるというのはこういう時だ。
「どのくらいのは破損状態でしょうか?」
冷静な自分に腹立たしくなった。怒鳴ればいいじゃないか、と僕は思った。だからすぐに行ってほしいと言ったじゃないかね、と言ってやればいいのに、と思った。でも、誰に、だ。総支配人からは誠意を感じた。ここでヒステリックになって思い出が戻ってくるのか、ともう一人の偽善者が思った。

僕はタクシーでホテルにとんぼ返りをした。支配人がホテルの玄関で出迎えてくれた。その表情は険しい。お部屋でお見せします、と言われた。僕の部屋で支配人が封筒に入っている携帯を取り出した。離婚した直後にジェレミーのカフェで息子が僕に神様について語った声が記憶の中から届けられた。甲高い少年の声だ。

「パパ、神様はみんなの傍にいるんだよ。みんなの傍にいる。ほら、見て。あの人の横にも、その人の後ろにだって。だから怒っちゃいけないんだよ」

そういう内容だった。僕はやっぱりこらえた。でも、涙が溢れそうになり、支配人さんには部屋から退出してもらうことになる。事故だから仕方がないことだ、と思うようにした。ホテルの人はマニュアル通り、きちんと対応をした。でも、朝一番で工場に行って探してくれていたら、とも思った。常連客の言葉を信じてほしかった。発見が少しでも早ければ、マシンは回ることもなかった・・・。でも、彼らは精一杯やったと思う。そのことは感じている。ただ、・・・。まだドラムに水が出る前で発見されているのだ。きっとドラムが回り出して、物凄い負荷がかかり、携帯がドラムに激しく叩きつけられたその音で、その悲鳴で、作業員が異変に気が付いたのだろう。なんてことだ!

力が出ない。でも、待て。今度は母さんの声が聞こえた。「ひとなり。どうしようもないことはある。不条理なことがある。でも、それを乗り越える時に人間は成長する。負けたらいけん」

そうだ。あの思い出の中の息子はこうやって立派に大人になった。Tシャツを買ってやる約束を守らなければ、と思った。成績もあがった。文句も言わず、僕が地方で仕事をしている間、老いた母さんの傍で彼女を励ましている。今、彼は生きているし、その息子との約束を守ることが大事だと思った。責任者さんから電話があり、申し訳ない、と必死で謝られた。その必死な声に嘘はなかった。携帯の費用についての話も出た。僕は、それは結構です、とお断りした。これはもう仕方がないことだからである。神さまはそこかしこにいる。この責任者さんの傍にも。

山笠の男たちの人間味あふれる熱量を思い出した。博多の男たちの勇壮な祭りを思い出す。いろいろとあったけど、僕にとってもとっても勉強になった博多の夏であった。さあ、気持ちを切り替えなきゃ。次へ行かなきゃ。秋のオーチャードホールの還暦コンサートに向けて、僕は大きく出発しなければならなかった。
 

滞仏日記「紛失していた携帯が戻って来て、僕はまた泣いた」