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滞仏日記「母さんはいつまでも母さんなんだな、と思った」 Posted on 2019/07/19 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、博多ではいろいろと勉強になったが、やっぱり母さんの一言が僕を救った。携帯が紛失して僕が大慌てをしているとき、僕はまた母さんにいいことを習った。それは携帯が発見されたという一報が舞い込んだ直後のことである。僕は自宅の近くの処方箋薬局に母さんの薬を取りに行っていた。タクシーで降りたのが自宅の反対側だったので、(薬局は対面にあり)僕が母さんにかわりその薬を取りに行ったのだ。でも、時間がかかったので、母さんが結局様子を見にやって来た。その時、ホテルの支配人さんから携帯発見の知らせが舞い込んだ。母さんは、
「よかったね、は~、ほんとうに神様はおるね。よかったったい」
と言った。そして、
「ひとなり。次にお前がすることはその掃除の方を叱らないように総支配人に提言するこったい。よかか、人間誰もが間違いをおかす。その結果、こういうことも起こる。でも、悪気がない。そこに怒りで戻しても何もいいことには繋がらんたい。むしろ、清掃の人に責任が向かうっちゃろが。だけん、お前から、気にしてないので怒らないでほしい、と支配人に言ったらよか。お前が「意に介さない」ものならだれも怒りはしない。人がぶつけた怒りは、また誰かに回るだけ。その人は間違えたけど、ご存じのように、人間はみんな間違える生き物。実はホテルにも責任があるし、その後の対応にも問題があるったい。でも、人間というのは一番下の立場の人に責任ば押しつけたがる。支配人さんはせんでも、その清掃の上の人とか、さらにその上の人とか、するかもしれん。お前が許せると思うなら、そのことを支配人に言わなならん。よかか。お前だってよく間違えとったったい。でも、母さんはお前が間違えた時には怒らんかった。己惚れてる時には怒ったかもしれん。お前はホテルにもその人にも誰にであろうと一切怒ったらいけん。誠意をもって謝る人を許せなかったら、この世界は終わる。よかな」

母さんらしいな、と思った。でも、そんなことはわかってるよ、と言いたかった。僕は誰の息子ですか、と言いたかった。僕の前を歩く母さんはずいぶんと老いて、背中が丸くなって、歩きも遅くなった。84歳だし、十年ほど前にはパックリと頭を開けて、大手術も行っている。昔は背筋の伸びたシャキッとした人だった。でも、背中の曲がった母を僕は誇らしく思う。こうやって一生懸命生きていてくれるだけで有難い。さりげなく、そういうことを言ってくれる人であることも嬉しい。僕は自分が84歳になった時、どんな人間であるだろう、と思った。そして、思わず背筋が伸びた。
 

滞仏日記「母さんはいつまでも母さんなんだな、と思った」