JINSEI STORIES

滞仏日記「親のような厳しさが必要な時もある」 Posted on 2019/08/06 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、今日はリサが夕食を食べに我が家にやってきた。リサはこの日記にもたびたび登場する息子の親友アレクサンドル君のお母さんだ。息子が保育園に通い出してからの仲だから、すでに十数年来のお付き合いが続いている。僕がシングルファザーになってからは、いわば息子の母親代わりのようなことをしてくれている。とても物事をはっきりと口にするいわゆる典型的なフランスマダムだと言える。元教育者だったからか自分の息子に対しては鬼のように厳しい。怒る時は頭ごなしに怒り、容赦がない。それはうちの子にも同様だ。二人きりで暮らすようになってから周囲は息子をちやほやした。どこかかわいそうな子を見るような目で人々が息子を見守る中、リサだけは甘やかさなかった。自分の置かれた環境の中で自立することを最初から強く息子に言い続けた。アレクサンドルへの厳しさと同じものをうちの子へも向ける。どうやら、息子はリサのそういうところが好きみたいだ。リサの家には息子の歯ブラシやパジャマがおいてあり、彼にとってそこは親戚の家みたいな避難所でもある。ご主人のロベルトとアレクサンドルがミラノ(ご主人の実家)にいるので一人だというから、「晩飯でも」と誘った。僕は手羽先を作った。
 

滞仏日記「親のような厳しさが必要な時もある」

日本でのことなどを息子はリサに話していたが、2時間くらい経った頃、彼が最近付き合いだした恋人について語りだすと、不意にリサは立ち上がり、テーブルに手をついて、自分の初恋の時のことを語りだした。親に勘当され家を飛び出し、ルーアンに恋人を追いかけていった時の様子とか、結局、そこの大学に入って、教師になるまでのとっても聞き応えのある長い物語だった。リサが息子に何を伝えたかったのか、残念ながら僕の語学力ではわからなかったけれど、彼女はたぶん、恋とは何か、生きるとは何か、という感想を自分なりに息子に伝えていたのであろう。説教をしているような話じゃなかったが、立っているリサ、座っておとなしく聞いている息子の絵はまるで映画の一コマであった。リサが自分の初恋のことを語っている間、たぶん、30分とか、一時間、息子はずっと耳を傾け続けた。(僕が日本で仕事に行っている間、リサはこうやって息子に様々なことを教えていたのかもしれない)そこにはいろいろな教訓があった。女性だから言える女性の気持ちとか、こういう時にこうされたことが嬉しかった、いやだったとか、両親との葛藤や、愛について。それを息子は黙って聞いていた。黙って、じっと耳を傾けていた。僕の話は2分と聞かない子なのに、と思った。長い長い年月、息子に寄り添ってきてくれたからこそ、彼はちゃんと彼女の話を聞くことが出来るのだ。今、息子は誰かに恋について相談したかったのだろう。それをリサが見抜いたのだろう。恋に悩む青年の気持ちをリサは察したのだ。父親には言えなかったのだな、と僕は思った。リサは立ち上がり、息子の横で、まるで母親のように、教師のように、彼の心に寄り添った。あまりに難しい内容だったので、僕は10パーセントも理解できなかったが、息子はずっと頷いていた。彼女が帰る時、息子はリサにハグをし、いつも、ありがとう、と言った。
 

滞仏日記「親のような厳しさが必要な時もある」