JINSEI STORIES

滞仏日記「人生は、今だ、今やらないでいつやる」 Posted on 2019/08/14 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、オーチャードホールが近づいてきた。二か月を切ったので、毎日、身体を鍛えている。で、友達に勧められて、ナイキのアプリ「NIKE RUN CLUB(NRC)」を携帯にDLした。家を出る時にアプリのスタートボタンを押すと、走った後、走行距離と平均速度などが出る。走ったコースの地図もでる。しかし、それだけじゃない、もっと凄いのは怠けて走らなくなると、説教もしてくれる点だ。
「一番難しいのは走り出すことだ。言い訳を乗り越えろ! 強い自分を信じよう。さあ、準備をして、今だ、今すぐ走るんだ」
今日は休もうかな、と思っているタイミングで携帯にメッセージが届く。アプリごときに尻を叩かれるのは癪に障るじゃないか。悔しいから僕は走る。でも、NRCのおかげで僕の身体は武田真治みたいになった。ランが終わったら、腹筋100回とスクワット30回というセットをこなしている。朝と夕と二階走ることもある。人生最高のライブを、と僕は走りながら自分に言い聞かせている。後悔したくない。来てくれたファンの皆さんに、昔よりも声が出ている、辻ちゃん、昔よりもカッコよくなった、と言わせてみたい。なので、僕にとってNRCが今のところ最強のパートナーなのである。

84歳の母さんはかつて僕によく言った。
「ひとなり、今だ、今すぐにやれ。後悔なんてものは今を必死で生きているものには存在しない言葉だ。後悔するのは今を無駄にしているからだ」
言われるたびに頭に来たけど、でも、その通りだと思った。母さんはベストを尽くしてダメだった時にいったい誰がそれを批判するだろう、と言った。
「ひとなり、ベストを尽くしたならば、たとえ成功しなくても、納得できるじゃないか。でも、ベストを尽くさなかったならば後悔するだろう。人間は失敗したことに後悔するんじゃない。ベストを尽くさなかった自分に後悔をするだけだ。だから今を頑張らなければならない」
と言った。
その言葉を肝に銘じて、僕は何事も今すぐにやるように心がけてきた。母さんにかわって、今は、このNRCが僕に葉っぱをかけてくれる。
「ひとなり、オーチャードホールの大舞台でベストを尽くせなかったら、お前は一生後悔するだろう。それはただのライブじゃない。お前が今日まで歌手としてやってきた全てを見せる二度とやって来ない日なのだ、今やらないでいつやる!」

ということは、母さんもライブに来るのだろうか? 映画のエキストラの中に内緒で潜んで息子の仕事ぶりをチェックするような人だから、間違いなく会場のどこかにいるのであろう。そして終演後、何食わぬ顔で楽屋に顔を出し、ダメ出しをするのかもしれない。NRCよ、明日からもっとはっぱをかけておくれ!
 

滞仏日記「人生は、今だ、今やらないでいつやる」