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真夜中の日記「どうやって、幸せを感じる生き方を見つけていくのか」 Posted on 2021/11/22 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、幸せと不幸というのはいつも不意にやってくる。
でも、不幸というのは結構、「今僕は不幸だ」とわかるものだが、幸福というのはなかなか「今僕は幸福だ」と気づき難いものじゃないか、と思う。
その時に幸福だと分からずに、しばらくして人生を振り返った時に、あの時期って「もしかしたら幸福だったのかな」と思えるようなものかもしれない。
そういう幸福ならいくらか経験がある。
でも、大事なことは「今僕は幸福なのだ」と気づけることであろう。
そのためには小さな幸福を見つめることじゃないか、と思う。
大きな幸福、たとえば大成功というのはなかなか経験できないし、何をもって大成功と言うのかも定義が難しい。
でも、小さな幸福、たとえば、美味しいご飯が炊けた、とか、気分よく元気に目覚めることが出来た、とか、子供が笑った、とか、友達から嬉しいメールが届いた、とか、そういうものをきちんと幸せだと認識することで、生活というのは割と幸福感を中心に添えることが出来るようになる。

真夜中の日記「どうやって、幸せを感じる生き方を見つけていくのか」



逆に、なんでも不幸にカウントしていくとその逆の現象が起きるので、僕は幸せではないことからできるだけ自覚的に遠ざかるようにしている。
もっと正確に言うならばあまり幸せじゃないことが起きた場合、小さな不幸と呼んでもいい、大事にしていたコップが割れたり、車のミラーが壊されていたり、注文したランチがとってもまずかったり、悪い知らせが届いた場合、僕は悲しむよりも前に、「生きているのだからこういうことは起こるし、生きていれば仕方がないことだし、厄落としのようなものだし、順番なんだ」と思うようにしている。
人間万事塞翁が馬という故事があるけど、幸いと不幸というのはいつやってくるか予想がつかないものだし、そのことに振り回されても、一喜一憂をしても、ひたすら現象に振り回されるばかりなのだということであろう。
大きな成功がやってきたら、僕は身構えるし、悪い事態が起きた時は、神様に試されているのだと思うようにしている。
我が人生を振り返ると、不幸なことの方が多かった印象が強いけれど、それを招いたのは自分だということ。

真夜中の日記「どうやって、幸せを感じる生き方を見つけていくのか」



幸福はその不幸の底から少しずつ自分を回復させていく過程にあり、その中で正しい価値観に気が付いていくようになり、幸せの基準も時を重ねるたびに、変化していく。最近は明らかな成功よりも何気ない日々に起こる、さわやかな風のような出来事を「日々の幸福」と名付けてあえてコレクションしているようなところがある。
その小さな幸せに「気付く」ことの「幸せ」はたぶん誰もが公平に持っている能力だけれど、そこに気が付かない人が多いということじゃないか。
それで自分は「不幸だ、不幸だ」となるのだけど、自分を不幸だと思うことで不幸を招いていることの方が不幸じゃないだろうか。
ものは考えよう、というが、ささやかな幸せこそが人生の大事な瞬間なのだと思って毎日生きることが出来るなら、幸福は無限に存在することになる。

真夜中の日記「どうやって、幸せを感じる生き方を見つけていくのか」



午前中、原稿に向かい、それから昼ご飯を作り、息子と二人きりで食事をし、午後は近所を走って、青空や木々を見上げ、疲れたら立ち止まって、深呼吸をし、家に戻ってシャワーを浴び、ライブに向けて歌の練習をしていたら夕方になったので、米を研ぎ、こぶ締めにしておいた鱸の白身を切り、野菜を洗い、皿に盛って、暮れなずんだ頃に息子と二人きりでご飯を食べ、僕は日記を途中まで書いてから、ベッドにもぐりこんだ。
その時、誰にかわからないけれど、僕には信仰がないので、でも、天井のもっと上の方に向かって、見守ってくださって、ありがとうございます、と声にしたら、なんとなく気持ちが落ち着いたの(落ち着くことはできないにしても・・・)である。
いろいろとあるけれど、人間万事塞翁が馬、である。
涙をぬぐって、がんばりたい。
 

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