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滞仏日記「田舎生活始まる」 Posted on 2019/08/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、着替えとか本とかパソコンをぶち込んだ小型トランクを車に詰め込み、ノルマンディへ向けて出発した。ステファンの別荘はドーヴィルからオンフルールの方向へ海沿いの道を登った小さな村、ヴィレルヴィルにある。拙著「父」にちょっとだけ登場する村でもある。奥さんとは数年前に死別しており、彼は出版社を退職後、この地で悠々自適な年金生活をおくっている。年金生活のことを「ルートレット」というらしい。彼が住んでいる家は曽祖父の時代から家族の別荘として使われてきた館で、プールとか広大な庭などはないけれど、でもいくつか部屋があり、いかにもフランス的な田舎の家だと言える。夏のあいだ、ステファンは毎年ここで過ごしている。ぼくにあてがわれた部屋はガレージの上、館のはずれにあり、もとは倉庫だった場所を客人用に改造したゲストルーム。部屋に入ると、ぼくを出迎えたのはラ・モンシュ(イギリス海峡)に沈まんとする夕陽であった。わ、凄い。

「好きなだけ滞在してくれて構わないよ。ぼくの友だちに開放している部屋だから。ここでいつか小説が生まれるのを期待している」
とステファンは言った。
海に面した側に広い窓のあるリビングルームが一つ、そして奥に寝室が二つもついていた。バスタブはないけど、各部屋にシャワーとトイレが付いてる。ぼくが一人で滞在するには十分過ぎる広さだ。
「横は隣の家の庭だし、下がガレージだから、歌い放題だよ。僕らの住居とは中庭を挟んでいるので、たぶん何も聞こえない」
小さな中庭を挟んだ母屋にステファンは大型犬と滞在している。
ステファンは71歳、愛犬のルーは6歳だ。奥さんが亡くなった年から一緒だという。初対面だったけれど、穏やかな子で、まるで人間みたいな顔をしている。
「あと、ゲイのカップルが昨日から母屋の方のゲストルームで滞在している。一人は画家で、一人はデザイナー。イギリス人だよ。今週末から甥っ子の大学生の娘が恋人かな、と泊まりに来る。可愛い子たちだよ。にぎやかになる」
「何部屋あるの?」
「数えたことがない。民泊ホテルにでもするかな」
ステファンはそう言うと肩を竦めて笑った。
「自転車、使ってもいいよ。ドーヴィルまでも、オンフルールまでも、15分かな」
自転車に乗ってあちこち回れるのだと思うと嬉しくなった。子育てからも解放されて、久しぶりにぼくはのんびりすることが出来る。でも、どんな時にも仕事はついて回る。ぼくの荷物はパソコンとギターである。夕陽が網膜を優しく押してくる。心地よい光じゃないか。

「あと、暇な時に君の料理が食べたいな」
「もちろん、毎日、作るよ。どうせ食べないとならないから、何人分も一緒だからさ」
そう告げるとステファンは、最高のゲストだ、と言って微笑んだ。

滞仏日記「田舎生活始まる」