JINSEI STORIES

滞仏日記「僕や君が傷つく必要はない世界」 Posted on 2019/08/27 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、僕は一人でいる時間が好きだけど、それは別に人間が嫌いなわけではない。でも、人間と関わらないでいられると心が落ち着くのは確かだ。人間はみんな言いたいことがあって、その矛先はだいたい他人に向かうものだから、黙っていても、聞きたくなくても、自分や誰かの批判が耳に入ってくることはある。そういうことに慣れるのもいやだし、言い合いとかする気力はないし、そういうことに疲れるのも嫌だから、たまに僕は一人になるよう心がけている。もしも誰かに嫌われても気にする必要はないと思う。それはしょせん、第三者の個人的な意見で、そのせいで僕や君が傷つく必要はない。人の批判をするのが人間の悪い癖だから、またはじまった、と思えばいい。たとえば、ちょっとうるさい隙間風だと思っておけばいい。塞ぐこともできるけど、毎回、隙間を塞ぐ暇もないので、あまり気になるならば、外に出れば済むことだ。そこは広大な世界だから、もっと風が強く、隙間風程度の雑音ならば消えてしまう。大きな世界に出るということはそういうことだと思う。だから海が好きなのだと気が付いた。そういうことを今朝、ステファンに話したら、そういう考え方もあるね、と苦笑された。犬の散歩に付き合うか、と言われたので、ウイ、と同意した。
 

滞仏日記「僕や君が傷つく必要はない世界」

息子から「パリに戻るよ」とメールが来たので、明日、ノルマンディ―を離れることにした。ステファンはトゥルーヴィルの方へと海岸線を歩いて行った。僕は追いかけるのをやめて、彼らを見送った。こんな静かな世界でも誰かと一緒にいると気を使ってしまうものだ。ステファンのような物静かな男であっても。僕は今日が最後なら一人になりたいので、彼とは反対の方へと向かって歩いた。遠く水平線の先にルアーヴルの工場地帯のギザギザがかすんで見える。かもめが波打ち際で貝をつついている。僕が近づくと逃げる。彼らの静かな生活を脅かしたくないので、目を合わせないようにして静かにそこを通り過ぎることにした。父さんが生きていた時に、ひとなり、誰にも迷惑をかけないのならば何をしてもいいんだ、と言った。子供ながらに、それは正しいのかもしれない、と思ったことがあった。誰かに嫌われても、それは僕のせいじゃないし、そのことを気にするのは時間の無駄である。そういう批判と関わらないでいられる世界へと迂回する方が楽だし、懸命であろう。ただ、ほっとけばいいんだと思う。狭い部屋にいるから隙間風が気になっていただけ。大海の前に立ってみればわかる。くよくよしてもはじまらないということだ。
 

滞仏日記「僕や君が傷つく必要はない世界」

夕方、オーチャードホールで歌う曲の通し稽古をしていたら、曲と曲の合間にガラス戸をノックする音がしたので、振り返るとステファンだった。大声で歌っていたのでうるさいと怒られるのかと思いきや、日本語の歌を聞きたい、と言い出した。そういえば、僕は自分が歌手でもあることをちゃんと彼に話したことがなかった。どうぞ、と招き入れた。今度、大きなコンサートを東京でやるんだ、と言った。いいね、と彼は言った。僕はソファをすすめた。彼の家なのだけど、ありがとう、と丁寧な返事が戻って来た。日本語の響きは実に美しい、言葉が一つ一つきちんと聞こえてくる、とステファンが言った。そこで、僕はECHOES時代の「東京」という歌を歌って聞かせることにした。だいたいの歌詞の内容を片言のフランス語で説明すると、東京が好きだって歌だな、と彼は言いあてた。ああ、僕は東京で生まれたんだ、と告げた。すると71歳のステファンが、記念に録音をしてもいいかね、と言って携帯をとりだした。それはとってもいいアイデアだと思った。

夕陽が沈む街、あの人は暮らしてた
苗字が変わったと、人づてに聞いていた
早く誰か見つけなさいねと、振り向かずにそう告げた
東京を愛せない、東京がとてもにくい
別れるたび部屋を変えたのに、心はいまだ越せず
 

滞仏日記「僕や君が傷つく必要はない世界」