JINSEI STORIES

滞仏日記「だれの人生だよ、とぼくは言う」 Posted on 2019/09/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくの息子のような世代の人たち、或いはぼくより若いあなたにちょっと言いたいことがある。別に、こんなオヤジの戯言なんか関係ないと思うなら、読む必要はないかな。でも、藁にも縋る思いで生きているのなら、ぼくにもそういう時期が何度もあったんだよ、と言わせてほしい。こうやって言葉にしても、くだらない、なんの意味もないのはわかっている。でも、本当に死んでしまう人もいるこの世知辛い世の中だからこそ、ちょっと待ってよ、と本気で思うのだ。

ぼくが言いたいことは「自分を他者の犠牲にするな、そのために絶対無理をするな」という一点だ。苦しい時は逃げてよい、とまじ、本気で思っている。その発言に「無責任だ」という意見もある。「逃げろ」とか言うな、と各方面から怒られる。でも、逃げていいよ。戦えという連中の「戦え」は自分を犠牲にしろと言ってるに他ならない。そういう人のために自分を犠牲にする、誰かが成功するための踏み台になることは超愚かなことだ。頑張れ頑張れという人たちの方がぼくは無責任だと思うよ。言葉の上での「頑張れ」には解決策なんかなく、時代も違うし価値観も異なるこの時代に、必死で生きようとしている人に向けて、いったいどの顔さげて「戦え」というのか。この星で生きるぼくらはたかだか最大で百年の年齢差しかない。先輩風ふかされても、全員が立派な大人であるはずもないし、従えるはずもないじゃないか。

自分を大事にしろというぼくの意見は「他人の踏み台になるな」「他人の批判を気にするな」「社会が作ったルールだけが生きる道じゃない」「自分を捨てるな」ということに集約される。それは、他でもない君の人生だからだ。苦しいんです、と言ってくる人が多い。正直に告白するけど、ぼくだって、めっちゃ苦しいよ。60年も生きてるのに、毎日、いまだに「子育て」から「生活」「仕事」「人間関係」に苦しんでる。

でも、死ぬことが解決策ではないとだけは言わせてほしい。死にたいと何気なく思う時、ぼくは決まって「誰の人生だよ」と自問する。その通り!それは誰のものでもない君の人生、ぼく自身の人生なんだ。やめるのも、逃げるも自由だ。ぼくはそれでいいと思っている。その上で、ぼくは君が一旦逃げた後に、その人生を自分のものにすることが必要だと伝えたい。ずっと全てから逃げ続けることは出来ないので、どこかで自分を取り戻し、再びその過酷な人生に立ち向かえばいいんじゃないのか?

なんだって、やろうと思えば出来るよ。ただし、死ぬ気でやるな、とぼくは言いたい。そこまでしてやらなきゃならない人生なんかない。上司が君に、「死ぬ気でやれ」と言ったら、そこから逃げろ。命を粗末にするな。死ぬ気でやれと言われて死ぬのは愚か過ぎる。誰の人生だ!君が思う人生を君が壊れないように楽しんで生きることの方が今の時代においては逆に大事なことなんだと思うよ。

ぼくの父親は会社に尽くす猛烈社員だったが、晩年、窓際族になった。その父が僕にこう言い残した。「ひとなり、自分の人生なのに人に尽くし過ぎた。お前は我儘に生きていけ」と。それは半端なく説得力があった。ぼくの父親は会社に人生を捧げて、一生を終えた。息子に、しかし、最後に自分のために生きろ、と本当のことを言い残してくれた。ぼくはそれを守っている。誰の人生だ、と自分に言い聞かせて生きている。人生は自分のものだ。他人のものじゃない。

みんなが同じである必要もない。自分の魂を売って苦しんで生き、しかも、引きこもって死を考えるくらいならば、外に出ろ。遠くに逃げろ。そんな場所で戦わなくていい。もっと広い海原があり、もっともっとでかい大陸がある。新たな場所で自分らしくチャレンジしていけばいいんだ。楽になればいいんだよ。ぼくのような年寄りが、若い君に言えることは、命を大事に生きなさい、ということだけだ。自分を大事にできた時に、人間はこの世界と折り合うことが出来る。誰の人生だよ、と自分に問うだけでいい。それだけなんだよ。 

滞仏日記「だれの人生だよ、とぼくは言う」