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滞仏日記「60歳になった今日、ぼくが考えていること」 Posted on 2019/10/04 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、還暦になった。何が昨日と違うのだろう、と思いながら目を覚ました。どうやらステージの上で歌っている楽しい夢を見ていたようであった。去年くらいからずっと60歳と言い続けていたので、やっとなったか、という今更ながらの感想の方が強くて、実感がわかない。けれど、周りの人たちは、60という数字に結構反応してくる。人間というのは若くいたいと思う生き物だから仕方がないし、20歳の時に「もう老けた。夭折したい」と言っていた人がいたし、30歳の友人が「もう僕の時代は終わった」なんて嘆いていた。年齢っていうものが何かと言えば、人間を一般的なイメージに強制収容する刻印のようなもので、逆イメトレ効果があって、数字に人間が順応し鋳型化する、或いは数字を突きつけられることで肉体の自由度が奪われていく行為なのだと思う。ふさわしい年齢というのは、時間が決めた年齢ではなく、自分がありのままで生きてく時に生じる自分時間で計測された生齢じゃないだろうか。

ぼくが滅多に腕時計をしない理由は、誰かに決められた不可逆的な時間というものに懐疑心を持ち続けてきたからで、子供の頃から気にしないで生きてきたからだ。とはいえ、約束とか締め切りはあるので、世の中が使っているグリニッジ平均時(GMT)とか協定世界時(UTC)、日本標準時(JST)とかを一応参考にしている。これらを利用している人がほとんどなので、仕事や約束の時には従わざるえない。欧州に行ったらユーロを使うのと一緒だ。そうは言っても子供を学校に送り出したりしないとならないので、朝ごはんを作る時間などはGMTを採用させてもらっているが、あくまでも目安。子供が学校に行ったら、THT(辻仁成標準時間)に戻している。

ぼくが白髪もないというとみんな「嘘だ~、染めてるでしょ?」、日テレの松村さんなんかは「ぜったいなんかやってる、やってるに決まってるもん」とぼくの目の前で豪語したことがあった。やっているとしたら、子供の頃から時間は不可逆的に動いてるものじゃない、と自分に言い続けてきたことくらいで、それはどういうことかというと、ぼくらは幼い頃から時間は過去から未来へと不可逆的に流れるもの、人間の力では決して変えられない方向性を持っているもの、と信じ込んで、込まされてきた。しかし、ぼくに言わせると思う側の人間がそれを受け入れたことでこれを疑う世界がなくなったに過ぎない。受け入れている限り不可逆的運動から抜け出ることはできない。何が言いたいかというと、過去や未来はない、と思うこと。あるのは常に現在だけだと思うこと、につきる。今を疎かにしないで常に今の中にいる時、誰かが決めた人間の一生のルールから外れることが出来る。生きるのは今、であって、過去や未来は今この瞬間をなんとなく形作る、つまり、何かそういうものがあった方が今がリアルになるからあるに過ぎない影とかセットとか小道具とか陰影のようなものだ。それなのに過去に囚われすぎると(囚われてもいいのだけど)、今が台無しになり、未来とか来世ばかり気にしていると当然、今がおざなりになる。今日、今、この瞬間を生き生きと生きる、と思えば、時間なんか簡単に手なずけられる。永遠の現在にいると思えば、無限が手に入る。物心ついた頃から、ずっとそう思って来たし、きっと誰かに批判されても、このTHTをぼくは採用し続けることになるのである。はい、何か?

滞仏日記「60歳になった今日、ぼくが考えていること」

追伸、昨夜、新世代賞の選考会で、歌人の俵万智さんと。熱い選考会でした。